『「しきり」の文化論』

内容

  • 第一章 しきるということ
    • 1.己と非自己/アイデンティティ
    • 2.自己と他者
    • 3.しきるという思考
    • 4.空間的しきりと時間的しきり
    • 5.社会的しきり
  • 第二章 しきられる世界
    • 1.聖と俗
    • 2.日常と非日常
    • 3.集団によるしきり
  • 第三章 生活の中のしきり
    • 1.住まいのしきり(遮断)の装置
    • 2.汚れのしきり
    • 3.私用と共用によるしきり
  • 第四章 しきりの提案

 ここのところ自己と他者の境界について考えていた。人によっては自己と他者の境界があいまいな様で、これが私にはどうしてそういう感じ方ができるのか、よくわからない。観察していると、どうも自分自身の主体を他者に託したり、他者を自分自身の延長として捉えているようなのである。これはおそらく自己と他者の境界があいまいだからこそできるのではないだろうか、と考えていた。この『「しきり」の文化論』では、そういった自己と他者の「しきり」についても論じられていて、興味を持った。


 ここでは広範囲にわたって「しきり」というものが論じられていてたいへん面白い。物理的なしきりといえば、部屋と部屋をしきる壁などがあげられるが、そういったものだけでなく、しきりはいかに身近にあふれていることか。そもそも言葉ですらも、自己と他者のしきりを乗り越えるためのものとして機能しているのだという。考える行為は分類するというしきりなしには成り立たないし、人が集まればその「うち」と「そと」、「わたし」と「わたし以外」などのしきりが生まれてくる。


 特に日本のしきりに関するものが多くあげられていて、日本人の気質を考える上で参考になった。やはり、自己と他者のしきりを強固にすることが自己の確立であるとする考え方は近代に西洋からもたらされたもののようで、それ以前の日本人の自他のしきりは、本来ゆるやかであいまいなものだったようだ。自立することこそ自己確立だと思ってきた私としては、そのようなあいまいな自己確立を、どのように目指せば実現できるのか途方にくれる。


 日本のしきりのゆるやかさは、まず目に見えるところでは、西洋の強固な壁に対し、日本の襖や御簾など、移動可能、取り外し可能というゆるやかなしきりとして現れる。また上部の欄間が開いているなど、目線さえ遮れば気にならないという、しきりの向こうに気配を感じさせるものである。これでは西洋流のプライバシーは保てないのだが、そこを見て見ぬふりといったメンタリティなしきりにより補っている。


 こういった柔軟な空間のしきりのと呼応するかのように、自分の属する集団を指す「うち」と「そと(世間)」のしきりも日本人は曖昧で、その範囲は柔軟に変化しうる。

「うち」が固定されていないがゆえに、「世間」や「そと」というのも、固定されているわけではない。これは、近代的主体を中心とした「社会」の概念とは、まったく異なっている。近代的主体であるよりは、「うち」というしきりによって「世間」が成り立つ。こうした融通無碍なしきりによって、日本では「社会」を考えてきた面が少なくない。P79より


 他にも、履き物の着脱によるしきりの解説など、たいへん面白かった。履き物を脱ぐという行為は聖なる空間へ入るための儀式であるそうなのだが、それを脱ぐ場所は、高さや素材の違いと、穢れの感覚に基づく暗黙のルールにより示されている。日本の風習に慣れていない人には、そのしきりの位置ががわからず、靴を脱ぐ位置を間違ってしまう。また部屋の位置関係にも優劣があり、上座や下座など、身分により誰がどこに座るべきかなどが決まっている。

履き物を預けるというのは、室内領域を出て勝手にどこかに行くことはできないという状態だ。だから、「下駄を預ける」という表現には、「相手を油断させる」という意味が隠されている。つまり履き物は、囲い込まれた室内という領域から、自らの主体性によって出ていくことのできる状態を保証するものといった意味がある。さらにいうなら、履き物は、自らの主体性で、ある境界(しきり)を自在に行き来することのできることを可能にするものだといえるだろう。P172より


 また、「みんなのもの」と言った時に「みんな」からしきられ外に追いやられる人の問題であるとか、衣服の着脱でしきるオンとオフとか、和と洋の切り替えで公私を分けていたことなど、たいへん面白かった。