『心は病気』

 主体というものを考える上で、初期仏教テーラワーダ仏教スマナサーラ長老の著書は参考になる。仏教では心とは何かということが徹底的に突き詰められていて、長老の著書にはそれが分かりやすく合理的に解説されているからだ。時には一般常識をも超えた考え方が述べられていて私にとってはそれがSFにもあい通じるところがあるのだが*1、指摘されてみるとなるほどと納得がいく。


 日本人の伝統的な主体の持ち方は、私には不思議に思えることが多々ある。この一種独特の主体の持ち方は、仏教の影響も色濃かっただろうと思う。私の独自の解釈ではあるが、自我をなくしましょうという仏教の教えを守ろうとして、日本の社会では、自分の主体を自覚せずに済ませる方法が編み出された。天皇制、萌え、型、道などといった方法がそれだ。これらは判断基準を選択した「私」という主体から、巧妙に目をそらしたまま主体的な行為が行えるという、便利な方法だ。また、自分と他人の境界をあいまいにし、他人や物などに自己を投影する方法も、主体を自覚せずに済ませることができる。


 けれども、実際には主体は存在しているわけだから、目を背けて見ないようにしても、何の解決にもならないと思うのだ。きちんと認めた上で、ではどうするのかが大切なわけだから。この著書では、自我意識と自我に分けた上で、自我意識は持ってもいいですよ、自我は捨てましょうとし、次のように説明されている。私が言っている主体とは、おそらくここでの自我意識に当たる。

自我意識というのは、鋭い刃物みたいなものだと考えてください。なくてはならないし、あっては危ないのです。普通の心理学では言わないことですが、仏教ではそういう立場から人間の自我意識をとらえています。P48より

あっては危ないというところは重要だが、危ないから無い方がいいというわけではないことも重要だ。


 ところで、他人に自己を投影するのは暴力的だと私は思っているのだが、この著書にも投影することが勧めてあって、どうなんだろうと一瞬思った。けれどもよくよく読んでみると方法は同じでも、内容が違っていた。

(前略)何か問題にぶつかっている人を励ましたいとき、どうすればいいでしょうか。
 この場合、もし自分が相手の立場だったら、どうしてもらえば元気が出て、問題を解決する力が湧いてくるだろうか……というように、相手の立場を自己にプロジェクション(投影)してみるのです。相手を「他人」と見ずに、「自分」として見るのです。それができた瞬間に、解決の糸口は明確に見えてきます。それをうまくやるには、「慈悲」が育っていなくてはなりません。P189、190より

他人に自己を投影するのではなく、他人の立場を自己に投影するよう勧めているのだった。これはぜんぜん違うことだ。そもそも他者性なくして慈悲は育ちようがないだろう。


 仏教は、日本へと伝来するまでの長い過程で、本来のものから変化したり意味が曖昧になったりしているように思う。原典に極力近いシンプルなものを、ちゃんと日本語で読むことができるのは幸いだ。

*1:特にイーガンとか