『グラン・ヴァカンス』

あらすじ

仮想リゾート〈数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)〉の一区画〈夏の区界〉。南欧の港町を模したそこでは、ゲストである人間の訪問が途絶えてから1000年、取り残されたAIたちが永遠に続く夏を過ごしていた。だが、それは突如として終焉のときを迎える。謎の存在〈蜘蛛〉の大群が、街のすべてを無化しはじめたのだ。わずかに生き残ったAIたちの、絶望にみちた一夜の攻防戦が幕を開ける――仮想と現実の闘争を描く〈廃園の天使〉シリーズ第1作。

 日本人の作品はあまり読んでいないのだけれど、『ラギッド・ガール』はどうも必読書であるらしい。というわけで、その前作にあたる本書と併せて購入。〈廃園の天使〉というシリーズとなり、未刊のものも含めて三部作となる予定だそうだ。


 美しく繊細で透明感があり、残虐でエロティック。全体を通してそんな印象がある。舞台は仮想のリゾート地〈数値海岸コスタ・デル・ヌメロ〉の〈夏の区界〉。この区界は南欧の港町をモデルに、「古めかしく不便な町で過ごす夏のヴァカンス」というコンセプトでつくられた。ゲストはここを訪れて、AI達を相手に割り振られたロールを楽しむことができる。この物語ではそんな仮想の世界を、内部に住むAI側の視点で描いている。


 どういう事情があったのか、〈大途絶グランド・ダウン〉と呼ばる日を境に、ゲストは1人も訪れなくなった。外の様子はいっさいわからない。訪れるゲストのいないまま、すでに1000年が経った。そんな〈夏の区界〉に、いきなり〈蜘蛛〉が襲い掛かって来る。それは建物やAI達を次々と食い、〈夏の区界〉は急速に破壊されていく。それと闘うAI達の攻防を描いた物語だ。


 戦いにつれて、ジュール、ジュリー、ジョゼなど、主要なAI達のそれぞれの物語が語られていく。一度も実行されたことはないけれど記憶としてだけバックボーンにある体験や、ゲストによりAIに対して行われた様々な仕打ちなど、それらは残虐で苦痛に満ちている。そういった体験に呼応して、〈蜘蛛〉を率いるランゴーニとの戦いも同様の残虐さで繰り広げられていく。ゴヤの描いた「わが子を喰らうサトゥルヌス」の絵を思い出した。あんなイメージだ。〈夏の区界〉という架空の世界が美しく繊細な分、残虐さがそれをいっそう際立たせる。この残虐さ、醜悪さがあるからこそ、この閉ざされた世界の美しさは、うさん臭くなく美しいのだろう。


 非常に面白かったのが、「アイデンティティ境界のしきい値を下げる」という表現。なんとうまく表現するものか。それっぽくてカッコいい(笑)。このしきい地の低い人はたまに見かける。私の解釈では、そもそも西洋風の「私」という概念が入って来る前には日本人には個々の人間単位で区分けをする風習があまりなかったようで、自分の属する集団と同化することで、集団としてのアイデンティティを自分のものとしていた。「私」が輸入された今でも、その流れをそのまま引き継いでいる人は多いし、その風習が「私」と結びついてまた違ったものになり、主体は持ちたくないけど我だけはあるという人はさらに多い。しきい値の低い人というのは、自分と他人とを混同しやすい。本人も無意識のうちに混ぜているように見える。日本人の作家の書く作品を私が苦手なのは、このあたりの自分と他人との区切りの付け方が、洋物ばかり読んで来た私には落ち着かないからでもある。


 この作者は、アイデンティティ境界のしきい値が下がった状態にこだわりがあるんじゃないかと、作品を読んで私は感じた。それは『象られた力』を読んだ時にも感じたことだった。『象られた力』にしても『ラギッド・ガール』にしても、例えば見分けのつかない双児や三つ子だったり、自分と他人が交互に入れ替わったりと、しきい値の下がった描写はあちこちに見受けられる。


 アイデンティティにこだわるイーガンは、『ひとりっ子』(感想はこちら)の「ふたりの距離」で、このしきい値をゼロになるまで下げるという思考実験を展開して見せた。しきい値が下がった状態を容易に想像できる日本人から見ると、あそこまでやらなくてもと思ったものだが、おそらくあそこまで徹底しなければ、彼にはそういう状態を想像できなかったのではないかと思う。アイデンティティ境界のしきい値が下がった状態の物語を書かせたら、日本人の独壇場かもしれない。