『ひとりっ子』

あらすじ

「この子がわたしの娘なの。生まれるのがほんの何年か遅くなったけれど」──待望の第一子となるはずだった女の子を失った科学者夫婦が選択した行動とは!? 子どもへの“無償の愛”を量子論と絡めて描く衝撃の表題作、星雲賞を受賞した数学SFの極北「ルミナス」、著者が追求しつづけるアイデンティティ・テーマSFのひとつの到達点「ふたりの距離」など、本邦初訳2篇を含む7篇を収録する、日本オリジナル短篇集第3弾

カバーより

 日本で独自に構成されたイーガン短篇集。いつもながらアイデンティティをテーマとした作品が多く、意思決定とか決断とかについて、分解して思考実験してあり、通して読むとイーガンの興味の変遷が感じられて面白い。なかなかよくできた構成だと思う。ただ、登場人物達のこだわりが強すぎて偏執的に感じられるところもある。この極端さがイーガンらしさでもあるのだろうが、そういう傾向のものがちょっと多いので少し読みにくいかもしれない。


 おまけに量子論は難しいので、さらっと説明があった程度ではよくわからない。例えば、観察することで世界が確定するとか、自分自身がどんどん分岐してあらゆるバージョンの自分として多元宇宙に同時に存在するとか、私にもよく理解できていないけれど、量子論をベースにしたアイデアが当たり前のことのように登場する。イーガンをずっと読んで来ているのでだいたいのところは見当がつくけれど、初めて読む人にはかなり取っ付きにくいだろうと思う。

「行動原理」

 殺された妻への復讐を果たすため、価値基準を変化させることのできるインプラントを試みる。解説にもあるとおり、エフィンジャー作の『重力が衰えるとき』に登場するモディーだったかダディーだったかに確かに似ている。行動のを左右する価値観は、確かにアイデンティティの根本でもある。同じガジェットを使っていても、エフィンジャーの作品ではあまりアイデンティティを意識しなかったけれども、イーガンの作品の場合はそれ抜きでは成り立たない。一瞬で自分の望みどおりにアイデンティティを変化させることができるとは、なんてお手軽なんだろう。同時にアイデンティティを取り替え可能なその程度のものとして切り捨ててもいる。けれどもどのインプラントを選ぶのか、または選ばないかというところにもまた、アイデンティティが潜んでいる。これだからアイデンティティというものは一筋縄ではいかない。

「真心」

 お互いを愛しているという脳の状態を固定化させることで、永遠の愛を実現した夫婦の話。それって愛なのだろうか。西洋人はやたら永遠を求めたがるけれども、周りは変化しつづけるので、逆に自分の首を絞めるだけのような気がする。

「ルミナス」

 『90年代SF傑作選〈下〉』(id:Atori:20060413:p5)にも収録されていた作品。観測することが、宇宙の法則を確定付けるというもので、観測されていないため確定していないどっちつかずの状態の宇宙を、我々に馴染みのある法則に確定付けようと試みる。冒頭がなかなかハードボイルド。

「決断者」

 物事の因果関係をパターンとして見ることができるアイパッチを通して、決断をくだす自由な自己の意思とはどういうことなのかを探る。主人公の追い求めていた自律的な自己という幻想は打ち砕かれるが、なかなかいい話で私にはかなり共感できる。それにしても、決断プロセスをこうまでして露にしなくても、日本人なら「縁」の一言で片付けてしまえるのに。

「ふたりの距離」

 お互いに記憶を共有してふたりの間の差異をなくすために、さまざまな実験を試みる男女の話。なぜそこまで徹底的に自分と同じであることを求めるのか理解に苦しむ。そもそも違っているからこそ恋愛なんて成り立つのだと思うのだけれども。と思っていたら案の定だった。そこまで徹底的に試してみないと結果が予測できないというのもいかがなものか。


 『祈りの海』の「ぼくになることを」に登場した、有機的な脳を除去して人工的な「宝石」に〈スイッチ〉するアイデアが、さりげなく折り込まれている。

「オラクル」

 分岐した別の平行宇宙の過去に遡って、歴史の流れがより良い方向へ流れるよう活動するヘレンは、数学者のロバートの元に訪れ、支援する。さらには際限なく分岐していく人間達を、望むならば次元を超えて統合しようと試みる。ロバートを悪魔崇拝者と決めつけて告発するジャックとロバートの対決が面白い。いつも思うことだが、自分の考えにしがみついて他の人の考えを受け入れることができない人は、機会を逃す。

「ひとりっ子」

 「ひとりっ子」とは、兄妹がいないという意味のひとりっ子ではなく、決断によって自分自身が別の平行宇宙へと分岐することがなく、したがって別バージョンの自分をまったく持たないという意味でのひとりっ子。際限なく分岐することに強迫観念を持つ夫婦は、自分では分岐することのない機械知性を娘として育て始める。何かを選択して行動するということが、自分自身の果てしない分岐であるならば、主体とは何なのか。