『プランク・ダイヴ』

あらすじ

地球から遥か遠宇宙のブラックホール〈チャンドラセカール〉では、ある驚異的なプロジェクトが遂行されようとしていた。果たして人類は時空の構造を知り得るのか?――ローカス賞受賞の表題作、別の数学体系をもつ並行世界との最終戦争を描く「暗黒整数」、ファースト・コンタクトSFの最高峰「ワンの絨毯」ほか、本邦初訳作品を含む全7篇を収録。現代SF界最高の作家の最先端作品を精選した日本オリジナル短篇集第4弾。

カバーより

 イーガンの短篇の中でも、とりわけハードなSFばかりが収録された短篇集。一回読んだだけではよくわからないものばかりだ。けれども、これまでのイーガンの作品に比べると、グロテスクなまでの極端さ(夫の脳を妻が子宮に入れるとか、自閉症を自己のアイデンティティとするために脳の健康な部位を切除してしまうとか)が抑えられていて、とっつきやすいし、読後感がいい。

「クリスタルの夜」

 人工知能を生み出す話。優れたAI研究者ジュリーは、資産家のダニエルと面会していた。彼はある〈水晶クリスタル〉を彼女に見せる。それは処理能力の優れた新しいプロセッサで、彼は他の研究機関に先がけて、AIを生みだそうとしていた。


 人工知能を取り扱う研究者たちの倫理感を問う作品。タイトルは、反ユダヤ主義暴動の「水晶の夜(wikipedia:水晶の夜)」にちなんだものだそうだ。

「エキストラ」

 脳を異なる身体に移植することで永遠の命を得る、というSFネタは、かなり使い古されている。脳じゃないけれど首を他の人の身体にすげ替えようとする『ドウエル教授の首』は、子供ごころにものすごく恐かった。ハインラインも、『悪徳なんかこわくない』でエロじじいの脳を若い女の子に移植して、妄想を爆発させていた。こういった古い作品なら、まあいいだろう。怪しげなネタでも、ハインライン節ならそれだけで許せる。けれども、『闇の船』(感想はこちら)でもこのネタが使われていたことには驚いた。いまどきこのネタを何のひねりもなく使ってしまうのはつらすぎる。


 その点、イーガンはさすがだ。『闇の船』の安易さできもちわるくなった口直しにはもってこいだった。さまざまな年代のエキストラをたくさん育てているところがそれっぽいし、移植ですべてが解決するという単純な結果になっていないのがいい。クローンの扱いに対する倫理についても問題提起されている。また、アイデンティティががはたしてどこにあるのかということも、あらためて考えさせられる。


 結局のところ、その人をその人たらしめているのは、脳だけではないのではないか。それに、意識の形成には、身体の形状や能力といったものも大きく関連しているはずだ。人を身体の部位で切り分けて考えること自体がそもそもナンセンスであり、単純に交換できるようなしろものではないのだろう。

「暗黒整数」

 『ひとりっ子』、『90年代SF傑作選(下)』などに収録された「ルミナス」の続篇。


 何よりもまず、暗黒整数ダークインテジャーというネーミングがすごくいい。暗黒物質ダークマターwikipedia:暗黒物質)、暗黒ダークエネルギー(wikipedia:暗黒エネルギー)に対して、数学版の、暗・黒・整・数!!!!! これにはもう、SF魂をくすぐられまくりだ。これを読むだけでも、この一冊を買う価値がじゅうぶんある。


 前作の「ルミナス」は、並行世界の話だった。この並行世界は、こちらの世界とは数学の基盤体系が異なるというもので、二つの世界はこの基盤体系をよりどころとして成り立っている。二つの世界の境界は定まったものではなく、どちらの数学体系も正しいという、矛盾を含んだ状態がなりたちうる。こうしたどっちつかずの状態は、計算することで動かすことができる。「ルミナス」では、このどっちつかずの状態をこちらの数学体系で確定しようと、ブルーノたちは計算能力を総動員して計算していた。


 「ルミナス」の出来事から10年後を描いたのが、この「暗黒整数」。ブルーノたちはあちらの世界(彼方側ファーサイド)と協定をむすび、「ルミナス」で知らずにうっかりやってしまった彼方側への攻撃を、だれかがまた繰り返すことのないよう、こちらの世界(此方側アサイ)で気をくばっていた。悪用されるのを防ぐため、此方側では、この真実を知っているのは当時の関係者3人のみ。しかし、此方側のだれかがそれを侵したようだと、彼方側から連絡があった。


 調べてみると、一人の数学者が真実にせまりつつあった。この数学者キャンベルのたてた仮説が、「暗黒整数」だ。彼方側との攻防が再燃する。どことなく、オセロゲームで白黒の駒をひっくり返して陣地を拡大しようとしている感じだ。最新のPCなどが使い物にならず、何世代も前のPCやアナログが頼みの綱となるのがおもしろい。


 世界の存続をかけたそんな攻防のかたわらで、夫の不倫をうたがうケイトとの物語がいい。何も知らないケイトから見れば、ブルーノの行動はうたがわしい上に最低だ。彼が秘密の仕事を一緒にしていのは、学生時代から彼と仲の良い女性であり、ケイトの疑心暗鬼はよくわかる。こういう人間ドラマがちゃんとあるのがいい。

「グローリー」

 最初に読んだ時には、冒頭部分に何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。SFには、設定がわかるまでに時間のかかることがよくある。だから、さっぱりわからなくても私は気にせず読み進める。すると、そのうちわかってくる。それでもわからなければ、もう一度最初から読む。


 惑星にたどりついたあたりから少し様子がわかってきたので、冒頭にもどって読み直した。再読すると、書かれていたのは極小の宇宙船を送り出す様子だった。


 イーガンの描く宇宙旅行は、ここのところえらくスケールが小さい。今回完成したのは、「1ミクロン幅の細長い針」だ。まずはこれを目的地近くの星系まで飛ばす。そこにパルスを送り、現地調達した分子を組みたてて、潜入先のヌーダー人のテクノロジーレベルの宇宙船から、ヌーダー人そっくりの有機的な身体までつくりあげる。冒頭の宇宙船の描写はなくても問題なさそうなものだけれど、ここをきっちりと描くあたりがハードSFのイーガンらしい。


 ヌーダー人の身体におさまった乗客のアンとジョーンは、二つの大国へそれぞれ潜入する。ヌーダー人が栄えるまえは、この惑星にはニア人が栄え、数学を究めていた。ニア人の滅んだ今、その数学の定理は遺跡のタブレットにのこるのみ。遺跡を破壊されないうちに、ニア人の数学を発掘して解読するのが、アンとジョーンの目的だった。


 ブラックホールの原理を利用して、はばまれてしまった伝達事項を再確認しようとするのが面白い。ニア人の数学については、むずかしすぎて私にはちょっと理解不能だ。

「ワンの絨毯」

 リライトされて『ディアスポラ』に組み込まれた中篇。この時代、人間はほとんどが肉体を捨ててAIとなっている。ディアスポラ計画に参加したパオロたちは、自分たちの千のクローンをそれぞれの宇宙船に乗り込ませ、千に区分けしたそれぞれの方角へと旅立った。目的は、人類以外の異星生命を総当たり的に探すためで、これを実際にみつけることで、世界は人間が観測することでなりたっているのか、それともそうではないのかという議論に結論を出そうとしていた。


 そのうちのひとつ《C-Zポリス》のパオロは、異星生命を見つけたという知らせで覚醒した。惑星オルフェウスでみつかったのは、巨大なひとつの分子でできた藻類だった。パオロたちはこの藻類をその構造から、数学者ハオ・ワンを称えて〈ワンの絨毯〉と名付けた。知的生命体ではないと思われたそれは、実は…。


 命名の由来となったハオ・ワンの「ワンの絨毯」 「ワンのタイル」がどんなものなのか、読んでもいまいちわかりづらい。英語のウィキペディアはこちら(http://en.wikipedia.org/wiki/Wang_tile)。日本語だと絨毯と訳されているが、英語だとTileとなっている。絨毯とタイルではイメージがかなり異なる。タイルの方が正しく伝わっているように思う。 (※ハオ・ワンの方も「ワンの絨毯」なのかと思っていましたが、正しくは「ワンのタイル」だそうです。翻訳された山岸さんより詳しいコメントをいただいておりますので、そちらをごらんください。)


 『ディアスポラ』ですでに大半を読んでいるのでいまさらだけれど、この作品も実に傑作。


 AIの性別についてのエピソードが興味深かった。肉体がないばあい、何が性別のよりどころとなるのだろうか。元の肉体の性別? では、肉体を持たずに生まれた場合は? オーランド(主人公パオロの父親)は、自分自身を男性だと思っている。オーランドの恋人も、自分自身を男性だと思っている。そしてお互いに相手を女性だと思って恋愛関係にある。こういう状態を書いたものはこれまで読んだことがなく、面白かった。恋愛関係になる前に確かめないものなのだろうか?


 ところで、イカオルフェウスのどこにいるのかという議論をみかけたので、以下にネタばれを。大野氏の解説にもちゃんとネタばれは書かれていた。わかりやすい解説なので、いまいち意味がわからなかった場合はこれを読むのがおすすめ。


ネタばれ:*1

プランク・ダイヴ」

 すべてのものを飲み込むブラックホール。「プランク・ダイヴ」は、これに実際に飲み込まれてみて、プランク・スケールでの時空構造を観測しようというプロジェクトだ。


 「プランク・ダイヴ」を間近にひかえたジゼラたちの作業している《カルタン》ポリスに、地球の《アテナ》ポリスから二人の来客があった。この作品でも、人類はすでに肉体を捨ててAIとなっている。


 到着したのはプロスペロとその娘コーディリア。自称物語学者のプロスペロは、このプロジェクトに立ちあい、これを伝説として書き記すためにやってきた。周囲の人たちとなんともずれまくっていて、あまりにイタいプロスペロ。一方、コーディリアは物理学への理解の早さと知性をそなえていた。二人を案内したジゼラは、父親に抑圧され続けていたコーディリアがここに来たいがために、父親をたきつけたのではないかと疑っていた。


 プロスペロの曲解ぶりがすさまじい。こういう性格の人物が永遠の命を得てしまい、この性格を直しもせず永遠に生き続けるとなると、周囲にいるものはたまらない。永遠に生きるというのもたいへんなことだ。


 原型的物語がどういう過程を経てできあがったかというイーガンなりの考察もおもしろかった。ただ、私は典型的な物語の構造を持っている話がけっこう好きだ。同じような出来事が3回繰り返されたりすると喜ぶほうなので、この説に手放しに賛成はできない。もっともこのプロスペロの無韻詩を読みたいとは思わないが…。


 ブラックホールについての詳細な説明や、時空についての仮説などが本格的に描かれていて、かなりハードなSFだ。ブラックホールにダイヴする宇宙船(?)は今回もやはり小さく、光子でできている。


 実験の参加者は、ひとたびダイヴしてしまうともちろん戻ってこれない。だから唯一無二の意識ではなく、直前にとったクローンを送り込む。とはいえ、実際にダイヴする側にしてみれば、たとえもう一人の自分が安全圏にいたとしても、自殺するに等しいことに変わりない。また、ダイヴした後で何かを観測・発見できたとしても、その知識を持ち帰ることはできない。そうしたことの意味を問いかける作品。

「伝播」

 仕組みは「グローリー」とちょっと似ているけれど、前者にくらべてずっと近い未来の話。


 西暦2100年、新しい年号に切りかわると同時に、恒星プロスペリティAの第4惑星「デューティ」にむけて、月から探査機〈蘭の種子〉が発射された。このプロジェクトは、恒星間で探査機を送るという人類初の試みだ。イカットと清はこのプロジェクトに技術者としてかかわっていた。


 それから120年後、当時の関係者は死亡するか非実体化していたが、イカットはまだ肉体を持ち老人となっていた。そんなイカットの元に、ある興味深い提案がまいこんできた。それは、〈蘭の種子〉が到着したデューティへ行ってみないかという申し出だった。


 〈蘭の種子〉の発射が描かれている1章のあと、2章でいきなり時代が切り替わり、ちょっと驚く。イーガンのSFは、すっかり遠い未来の話が多い気がするが、2章以下には人類がAIへと切り替わりつつある時代のようすが描かれているのが興味深い。また、イカットたちの活動で、ここから新たな人類のあり方が始まる。前向きで、未来に期待を感じられる話となっているのが、好感が持てる。








*1:単純な生命だと思われた藻類〈ワンの絨毯〉は、実は天然の万能チューリングマシンwikipedia:チューリングマシン)として機能していて、そこには天然のイカ型AIが棲んでいた。初めて遭遇した知的異星生命が実はAIだったというのは、なかなか衝撃的。『ディアスポラ』では、たしかオーランドだったように思うが、イカたちの世界へと自分のクローンを送り込む