『ユダヤ警官同盟』

あらすじ

安ホテルでヤク中が殺された。傍らにチェス盤。後頭部に一発。プロか。時は2007年、アラスカ・シトカ特別区。流浪のユダヤ人が築いたその地は、2ヶ月後に米国への返還を控え、警察もやる気がない。だが、酒浸りの日々を送る殺人課刑事ランツマンはチェス盤の謎に興味を引かれ、捜査を開始する―。ピューリッツァー賞受賞作家による刑事たちのハードボイルド・ワンダーランド、開幕!

カバーより

  • 著者:マイケル・シェイボン
  • 訳者:黒原敏行
  • 出版:新潮社
  • ISBN:9784102036129
  • お気に入り度:★★★☆☆
    あらすじ

    マフィアが巣食い、宗教指導者が影響力を揮うシトカの街を、深い傷を負った刑事の魂が彷徨う。殺された若者はチェスの天才だった。神童。奇跡の子。ユダヤ人の間で囁かれる救世主伝説。警察ばかりか、幾多の勢力が事件を葬り去ろうとするなか、相棒ベルコと暴走気味に捜査を続けるランツマンはある事実に気づくが―。故郷喪失者の挽歌が響くハードボイルド・ミステリ大作、佳境へ。

    カバーより

 歴史改変SFとして評判になっていたので購入。タイトルからもわかるとおりユダヤ人社会を描いた作品。推理小説としての比重が高くリアリティ重視なので、SFを期待して読むと当てが外れる。


 歴史が改変されているということは、冒頭の、1977年にシトカで万国博覧会があったというくだりでなんとなくわかる。1948年、イスラエルは建国3ヶ月にして敗退。アラスカ移民法が1940年に制定されて以降ユダヤ人が多く入植していたアラスカには、シトカ特別区が暫定的に作られた。しかしこの特別区は、60年後にはアラスカ洲に“復帰”してしまう。2007年の現在、その“復帰”は2ヶ月後に迫っていた。ここに住むユダヤ人のどのくらいがここに残れるのかもはっきりしない。シトカのユダヤ人は再び流浪の民となろうとしている。こんな状況下で起きた殺人事件を解決しようと、ユダヤ人の殺人課刑事ランツマンが奮闘する。


 主人公のランツマン刑事は2年前に離婚し、妹も亡くしたばかり。記憶力がずば抜けて良いので仕事は優秀、犯人の検挙率も高いのだが、仕事をしていない時は死んでいる気分だという程、荒んだ生活をしている。そんなランツマンの住んでいるホテルで殺人事件があった。現場となった部屋にはチェスの手を再現したチェス盤があった。父親との確執のためにチェスにトラウマのあるランツマンは、この事件の担当を申し出る。


 アメリカではネヴュラ賞、ヒューゴー賞ローカス賞とSFの賞を三冠を受賞しているが、SFとしての醍醐味はちょっと感じられない。これがもっとこう、どこか地球外の植民惑星か何かで、得体の知れない現地のエイリアンが出てくるとか、遺伝子操作なんかが絡んでくるとかすれば、返還される直前のユダヤ自治区で活躍するユダヤ人という設定はそのままであっても、SF的にはずっと面白かっただろうに。まぁ歴史改変SFという枠からは外れるかもしれないが。


 それに、SFならば構築された世界観がラストで崩壊するなり再構築されるなり覆されるなりしてほしい。今回の場合はもうじきシトカが返還されようとしているという設定なので崩壊すると言えばするのだけれども、最初から予定されていたことが予定通り進行するだけなので意外性がない。


 また、私自身がユダヤの宗教や慣習に馴染みがなさ過ぎて、改変されたものなのか事実に基づいたものなのかの判断がつかない。ヴェルボフ派*1などいくつか宗派が登場し、服装の違いなどで一目瞭然らしいのだが、実在するのか、どういう立場をとっている宗派なのかさっぱりわからない。赤い牛に対する思い入れにしても、『時間封鎖』にも似たようなシチュエーションが出てきたからそういうものかとも思うが、よくわからない。ユダヤ教に対する知識があればもっと楽しめるものなのかもしれない。


 もっとも、知らない宗教・民族の人びとの考え方や慣習が描かれているという点では面白かった。確かに翻訳者が後書きでも書いているように、ユダヤ人というあり方はSF的に思える。とりわけ面白かったのが、「境界線の知者」と呼ばれる職業だ。


 安息日に仕事をしてはいけないというのはよく聞くが、なんと安息日には、家の外で物を運ぶことすらできないらしい。なんと大変な宗教…。さすがに実生活ではそれでは差し障りがあるので、紐と柱を駆使して仮想の出入口をつくり、それらを創意工夫で繋げて活動範囲を広げているらしい。魂にとってのこの安全区域をエルーヴといい、これを管理し判断しているのが、「境界線の知者」。こんな言い訳めいたやり方で問題ないのかどうか疑問だが、だったら守らなくていいんではということにはならないというのも不思議に思える。


 紐で囲われたこのエルーヴというものは、実在するのかそれともフィクションなのかとググってみたところ、こんな記事(http://chikawatanabe.com/2007/06/24/post-2-16/)が見つかった。ワシントンDCも街ごと釣り糸で囲われていたとは…。



 持って回った言い方や皮肉な言い回しが多くてちょっと読みにくい部分も多いが、とはいえ、ハードボイルドとして読むならば全体的にはそう悪くはない。伏線の張り方などもしっかりしているし、推理小説としてもよく出来ている。また、架空の社会をここまで説得力のあるリアリティを持って書ける作者の力量も、たいしたものだと思う。


 ランツマンは、離婚に至った葛藤を抱え、父親に対する複雑な感情を抱え、ユダヤ人として敬虔な信者ではないながらもユダヤ人ならではの問題を抱えていたわけだが、殺人事件の解決を通じて彼の葛藤の根源的な原因が明かされる。それらが昇華されていくラストはなかなか清々しく、思いのほか良かった。

*1:後書きによると架空の宗派らしい