『井沢式「日本史入門」講座 1 和とケガレの巻』
- 著者:井沢元彦
- 出版:徳間書店
- ISBN:9784198930318
- 序章 既存の歴史学が「本末転倒」であると断じる理由
- 第1章 世界史との比較なしでは、日本史の「特異性」が見えて来ない!
- 第2章 文明の個性が「宗教」に集約されるのはなぜか!?
- 第3章 日本人が知らない日本固有の信仰――それが「和」である!
- 第4章 歴史から失われた「真実」は、こうすれば突き止められる!
- 敗者オオクニヌシの「出雲大社」が、一番大きかったという事実!
- 出雲大社は「日本の特異性」を体現している!
- 憲法十七条が象徴する日本の教育問題
- 聖徳太子の憲法十七条は「和の宗教」を高らかにうたいあげたもの
- 日本史の根底に流れる「話し合い教」を見逃すな!
- 宗教を無視したための「巨大な見落とし」
- 出雲大社が象徴しているものは、明らかに「和の精神」だ!
- 神話を無視したための「巨大な見落とし」
- 「日本の歴史教科書」は、前後のつながりが抜け落ちている!!
- 「話し合い絶対主義」が招いた二・二六事件の真実
- 官僚が大臣の命令に従わない理由
- 徳川家に見る「話し合い文化」
- 「側用人vs.老中」の構図を操った綱吉の巧みな綱さばき
- 徳川時代に「発禁図書」が大っぴらに出回っていた理由
- あまりに日本的な「談合」と「天下り」について
- 談合は日本民族の病気だ!
- 第5章 「武士」と「差別」の根源――日本人が最も忌み嫌う「ケガレ」とは何か!?
私が井沢氏の著書に興味を持ったのは、知人の言動が私にはあまりにも理解不能で悩んでいたからだった。
例えば、私の言ったことについてその人は理由を推測する。そして「(私が)『○○○○○○○〜』と言ったということは、つまり『□□□□□□□〜』と考えているはずで、それは良くない」などと責めるのだ。ところが私はそんなことは全く考えてもいなかったし、あまつさえ、どう考えれば○と□が繋がるのかさっぱり理解できなかった。私の発想の中には全く含まれていない考え方だったのだ。なのにどうして私が考えているはずだなどと言いきるのか。どんなにそんなことは考えていないと説明しても理解してもらえず、ついには図解して記号で説明したりまでした。
また、その人とは主体のあり方が大きく違っていた(参考:http://atori.hatenablog.com/entry/20090108/p1)。私は自分1人で主体を確立しているのに、その人は主体がすぐに他人と混ざる人で、私が異なる考えを持っているということが理解できなかった。主体が混ざっているのが普通の状態なので、無意識に私の考えも自分と同じに違いないと思い込んでいた。そして他人に感情移入しては私も同等に感情移入しているものとして振舞った。
さらに、私が自分のように他人と主体を混ぜないことを、色々な言葉で非難した。言葉を変えて非難していたのは、本人にも何が問題点なのかがよくわかっていなかったからだと思う。だから核心を避けてその周囲についてあれこれと非難していたのだが、論点がずれていたため、何を気に入らないと言っているのか私にもよくわからず、苦労した。
今ではこういったことを理解できたが、当時はどうすれば理解できるのか、説明がつけられるのかと、本を何十冊も読みあさった。いろいろ読み、観察して、次第にわかってきたことは、日本人には一種独特の考え方の癖があり、一部の人はそれに大きく影響されていて、理屈ではどうにもならないことだった。これらは感覚的なものであり、主体の持ち方とも密接に関係している。また、よくよく観察してみると、そういう傾向の人は他にも何人も見受けられた。
著者の著わした『言霊――なぜ、日本に本当の自由がないのか』(感想はこちら)も、そうして読んだ中の一冊だった。ここで紹介されている「言霊」と「ケガレ」の概念は、非常に参考になった。著者はこういった視点から、日本の歴史について何冊も著わしている。ただ、私としては、歴史ではなく、この日本人の特性の部分についてもっと詳しいことを読みたいと思っていた。
本書はまさに、その部分についてまとめられた一冊。中でも面白かったのが、聖徳太子の「憲法十七条」のことだ。
何かを書く場合、通常、大切なことは一番最初に書く。二番目や三番目には、二番目や三番目に大切だと思うことを書く。書かれた順番どおりに大切だと思っているはずだ。では「憲法十七条」ではどう書かれているか。
第一条では「和」=協調性の大切さについて述べられ、「話し合いで決められたことは必ず正しいし、間違っていない」と述べられている。続いて、第二条で「仏教」、第三条で「天皇」について述べられている。最後に第十七条では、第一条の「話し合いで決めろ」と同じことを裏返しにし、「一人で決めてはならない。かならず多くの人々とともに論議すべきである」と述べられている。
ということはつまり、聖徳太子が一番大切だと考えていたのは、「仏教」や「天皇」よりもまず第一に「話し合い」による「和」であり、次に「仏教」、その次に「天皇」と考えていたはずだ、と著者は説く。「憲法十七条」は「和の宗教」を高らかにうたいあげたものだと、著者は位置づけている。
しかし、実際には話し合いで決めたからといって常に正しいわけではないし、うまく行くわけでもない。素早い決断が必要な時には、致命傷になりかねない。けれども日本にはこの価値観が根強く存在していて、「みんなで話し合いをしなければならない、独断で決めるのは悪いことだ」と無意識で考えている。
日本人がこうして無意識のうちに持っている価値観を、まずは、明らかにして自覚することが大切だと私は思う。これらを言語化できればおそらく、それが短所として働かないよう注意することもできるし、逆に長所として活かすこともできるだろう。こういった日本人の特性は、グローバル化する社会の中で、現状では良くない方向に働いているように思える。こうした著書をきっかけに、少しでも改善されれば良いと思う。