『言霊−なぜ日本に、本当の自由がないのか』

 私は言霊を信じている。音の響きは人に影響を与える。そう思っていたので「言霊」とタイトルについたこの本を手に取った。しかしここに書かれているコトダマ*1は、影響などといった生易しいものではなく、もっと日本人の無意識の中に深く根ざした信仰としての言霊だった。この本の前書きには「初めてコトダマという厄介な怪物に、科学と論理の光を当てた」と述べてある。また、「今ではコトダマを克服さえすれば、当面日本人が悩んでいる問題の大部分は解決されるとすら思っている」とも書かれている。そして実際にそのとおりに感じられる。


 コトダマとは、一言で言うと、「言葉と実体(現象)がシンクロする」「ある言葉を唱えることによって、その言葉の内容が実現する」という考え方だそうだ。「雨が降る」と言葉を口にすれば実際に雨が降る、という考え方のことだ。古代日本では、これは常識的な考え方だった。もちろん、今では雨が降ると言ったために実際に雨が降ったと考える人はいないだろう。しかし、こうした「言ったことが現実に起こる」と考えられている状況は、今でも実際にあるのだという。


 例えば、ハイジャックが起きたとする。この時、ハイジャックに詳しい専門家は「人質に多少の犠牲者が出たとしても、強行突破もやむをえない」という案を発表できるだろうか。また、治安当局がその提案を採用して実行した結果、人質が死んでしまったとする。この場合、人質が死んだのは誰の責任と考えられるか。


 死者が出たことの責任は、殺害した者にある。殺されずにすんだはずなのに治安当局の不手際で殺されてしまったという場合でも、第一の責任は殺害した者にある。治安当局の責任は、あくまでもその次だ。また、責任とは、与えられた権限に対応する概念で、権限のないところに責任は伴わない。専門家が意見を提案したとしてもそれは方法のうちのひとつに過ぎない。治安当局はこういう事態に備えるための組織で、対応するための権限を与えられている。案を採用し実行した治安当局に責任はあるが、提案した者には責任はない。


 にもかかわらず、「犠牲者が出てもやむをえない」と「言ったこと」で専門家が責められることはよくあるという。責任を問われないまでも、「非常識な発言だ」「家族の気持ちを考えろ」と批判されるだろうことは容易に予想できる。ではなぜ責任を問われるのか。


 著者はこれこそがコトダマ信仰だと説く。論理的に考えて責任のないところになぜ責任を問うのかというと、それは「非論理」の世界で責任を問われるようなことをしたと、非難する側が考えるからだ。そしてそれは、「言ったこと」と「起こったこと」との間に、因果関係を認めているからだという。「言ったこと」と「起こったこと」がシンクロすると考えるからこそ、「犠牲者が出てもやむをえない」とコトアゲ*2をした「おまえの責任だ」ということになるのだという。


 コトダマの世界では、言葉を使うことが言葉の内容を実現させることになる。「私はこのように考える」と意見を述べると、それが「私はこのように願う」と混同して受け止められるのだそうだ。このことが言論の自由を大きく損ねると、著者は危機感を持っている。


 というのも、悪い予測をすると、その意見を出した人がその悪い予測を願っていると受け止められるために、その悪い予測がどんなに理にかなった予測であろうとも、否定されて省みられないからだ。だからその予測を回避するために手を打つことができず、手をこまねいたあげく悪い予測が実現してしまうことになる。太平洋戦争を開戦17年前に的確に予測していたバイウォーター予測の実例を挙げて、これがあったにも関わらず戦争を防げなかった、コトダマ信仰の危険性を著者は警告している。


 他にも、「悪い言葉」を「良い言葉」に置き換えてきたこと、猛威を振るう「差別語狩り」、過去の歴史に遡ってまで「悪い言葉」を置き換えたために歴史に学べなくなっていること、言い換えて安心してきた歴史、数さえ合わせば形式さえ整えれば安心していること、世が乱れた時に歌集を編み都に平安と名付け軍隊を廃止した貴族達の行動、武士が蔑まれたのはなぜか、自衛隊はどう扱われているのか、日本人はなぜ契約が下手かといったたことを、コトダマを切り口に解説してあり興味深い。


 中でも歴史の解釈が面白く、豊臣秀吉の指が6本あったという指摘には驚かされた。


 西洋の論理で考えている人達と、コトダマの論理で考えている人達では、私の経験に照らしてみても、考え方が大きく異なっているように思える。しかも、この考え方の違いに双方ともあまりにも自覚がない。この違いを、ともすれば相手の性格のせいや頭の良し悪しで片付けがちだが、そうではなくてコトダマによるものだったと仮定すると、様々な疑問が一気に解ける。


 この本はどちらかというと作者の焦燥感が前面に出ているため、コトダマの悪弊に焦点が当てられている。しかしコトダマ信仰には良い点もたくさんあるだろう。後書きで指摘されているように文学への貢献は大きいし、西洋にはない日本独自の発想がここから生まれてくるように思える。


 先日「Yes オノ・ヨーコ」展に行って来たが、「インストラクション(指揮)」という、具体的な指図を文字で記したのみのアートは、言霊の国の日本人ならではの発想だと思った。これは観客が自身の想像力を働かせて鑑賞するもので、こういう形のアートもあるのかと面白かった。コトダマイズムからくる思想や芸術は、これからの日本の輸出品として脚光を浴びるかもしれない。


無垢に憧憬するコトダマイスト

(「無垢に憧憬」することについては『無垢の力―〈少年〉表象文学論』(ASIN:4062116715)参照:http://atori.hatenablog.com/entry/20040525/p1http://atori.hatenablog.com/entry/20040530/p1id:lepantoh:20040513、id:hizzz:20040524、id:mayurock:20040606)


 実は『言霊』を読んでいて気づいたのだが、ここで紹介されているコトダマイストの発想や発言は、私の周囲で見かける、無垢な他者を憧憬していると思われる人達の言動とそっくりだ。私が意見を述べる/提案する/事実を述べる行為は、要求している/命令している/非難していると受け止められ、私が自力で自分の問題を解決しようとすると、他人を信用していない/甘え不足/コミュニケーション不足と受け止められた。その他にも私の理解できない不思議な発想が多々あったのだが、コトダマを信仰しているからだと仮定すると、さまざまなことがどうしてそうなるのか納得できる。


 コトダマイストが問題解決をしようとする場合、「言う」→「起こる」が成り立つなら、「困っていると言う」→「解決するのを待つ」となるのではないだろうか。


 実際、「困っていると言う」と、それを聞いた周りの人達が、困っているだけで何もしようとしないその人の代わりに、自主的あるいは仕方なく問題解決にあたっているケースが見られる。なぜ問題を解決するために自分でもっと考えず、何もしなかったり、行き当たりばったりの安易な方法に飛びついたりできるのかと不思議だったのだが、これもコトダマのコミュニティならではのやり方だったことに気がついた。日本のコミュニティには相互依存で物事を解決するシステムが作りあげられている。また、行動を起す際には「だれだれのために」という大義名分が存在することが多く、自分の主体性を意識しなくても行動できる。それは相互に助け合う良いコミュニティだとも言える。


 しかしすでに日本には西洋近代の価値観がもたらされているわけで、西洋の文化がたくさん流入しているという現実もある。コトダマの価値観だけではないのが実情だ。別文化に属する人達がすでにコトダマコミュニティに紛れ込んでいて、誰がどういう価値観でいるのか、外見からは見分けがつかない。また同じ人の中にも、ある部分では西洋の価値観に基づくリアリスト、ある部分ではコトダマの価値観に基づくコトダマイストと、混在している場合もある。お互い理由がよく分からないままに、リアリストとコトダマイストは齟齬をきたしている。


 例えばリアリストがコトダマイストに意見を述べると、それが単なる意見でしかなくても、そう願っていると受け止められる。相互依存するコミュニティでは、意見を述べることが、コミュニティに還元すべき義務を果たさず、自己の取り分ばかりを要求していると受け止められる。また、リアリストから見ると、口で言うばかりで自分では解決しようとせず、人に仕事を押し付けるばかりで無責任と受け止められる。


 これは実は西洋的な価値観とコトダマによる価値観の意識のずれが生み出している誤解でしかないのだが、異なる価値観を信じている自覚や価値観がずれているという認識、その価値観がコトダマという自然宗教に基づいているという認識がないため、互いに相手が悪いことになる。かくしてコトダマイストが多いコミュニティではリアリストは悪者にされ、リアリストが多いコミュニティではコトダマイストが悪者にされる。


 下記のURLの「ケガレ思想」というエッセイでは、「言霊/ケガレ」からくる慣習と、もともとはそれが信仰に基づいていたという認識とのリンクが切れてしまっていることが指摘されていて、非常に面白い。


ケガレ思想
http://www2u.biglobe.ne.jp/~siren/sub/es09.htm

もしも、この非物理的なものが「神のもたらすパワー」と規定されるなら、「言霊/ケガレ」は何らかの宗教として各個人の意識下に立ち現れていたはずだ。だが、やっかいな事に、現代では「神」と「言霊/ケガレ」はリンクが途切れてしまっている。


「言霊/ケガレ思想」の理論背景は神道陰陽道にある。だが、ご存じの通り敗戦によって憲法からも教育システムからもそれらは抹消された。アメリカは日本の神そのものを消すことはしなかったが、神と現象を繋げる理論を抹殺したのである。
結果、現象だけが人々の無意識下に残り、たとえ意識上では無神論者を自覚していても、その実、知らぬ間に言霊とケガレによって思考と行動をコントロールされるという状況を招いた。


 他にもここには言霊や因果律などのエッセイが載せられていて、これらもとても面白い。

「言霊」という戒律 その1
http://www2u.biglobe.ne.jp/~siren/sub/es08.htm
Relation of Cause-and-Effect
http://www2u.biglobe.ne.jp/~siren/sub/es11.htm


 ところで、このコトダマイストとリアリストの対立は、西洋の思想が入ってきた近代以降に始まったものではないらしい。『言霊』では、日本の歴史はコトダマイストとリアリストの対立の歴史だったと紹介されている。

 日本の歴史は、この平安貴族と鎌倉武士、平安コトダマイズムと鎌倉リアリズムの対立の歴史であることが、私にはわかってきた。大雑把に言えば平安、室町、江戸がコトダマイズムの時代、鎌倉、安土桃山(戦国)、明治がリアリズムの時代である。つまり、この二大潮流は交互に日本の歴史を支配している。
 日本人は本質的には、コトダマを信奉するコトダマイストである。鎌倉時代や戦国時代、あるいは幕末、明治のように、本当に軍隊というものの存在が必要だった時代には、日本人は一時リアリズムというものに目覚めるのだが、喉元過ぎれば熱さ忘れるのたとえどおり、すぐにコトダマの影響が復活してくる。ちなみに現代は「第二次平安時代」だと私は考えている。『言霊』P138より


 また、リアリストである武士は、コトダマイストである貴族から蔑まれてきた。『言霊』にはこの理由が、武士が革鎧を着ていたためだと述べられている。確かに日本では革を扱う職業に就くものはいわれのない差別をうけてきた。これは死を「穢れ(けがれ)」とし、それが「うつる」とする風習から来ている。動物の屍骸を扱う職業は「穢れ」とされてきた。武士が革を着ていたために蔑まれたというのも、あながち的外れとは思えない。


 驚いたのは、この「穢れ」という言葉は、『無垢の力』にも登場していたことだ。折口信夫は主体を「穢い(むさい)」と表現していた。「みっともない」、「見苦しい」、「醜い」、「野暮ったい」などではなく、これは「穢れ(けがれ)」だったのだ。「穢れ」はうつるから、主体を持つ念者と客体的な自己に憧れるコトダマイストの間には、絶対的な線引きが必要だったのだ。また、「無垢に憧れる」という行為も「穢れはうつる」の逆転だと考えると、なぜ無垢な他者に憧れるのかがよくわかる。おそらく、「無垢」もまたうつるのだ。だから無垢な自分を求めるものは、無垢な他者に寄り添おうとするのだ。


 主体を持つものが自己主張することは、「言う」ことである。「言う」ことはコトダマイストにとっては単に言うだけに止まらない。意見を言うことは、祝詞であり呪詛であると受け止められる。だからコトダマの論理を理解せず下手なことを言うと、バッシングされるのだ。イラクで人質となり開放された被害者の方々が「言ったこと」で猛烈なバッシングに遭ったことは記憶に新しい。そしてそれは海外の人の目には奇異に映ったことも忘れてはならない。


 日本では通用するそのコトダマの論理は、海外では通用しない場合が多い。ビジネスや政治においてはコトダマイズムが致命傷となることがある。数だけ合わせたり、呼び方を変えたり、形式だけ整えたりして安心しても、実質が伴わなければいずれ信用を失う。コトダマイストも西洋リアリズムを受け入れざるを得ないのではないか。


 一方リアリストも日本社会にはコトダマ信仰という自然宗教が今尚猛威を振るっている自覚を持つ必要がある。郷に入っては郷に従えだ。これは何千年も日本で続いてきた歴史なのだ。生半可に太刀打ちできるものではない。また相手の信じている考え方を変えさせようとするのもおそらく無理だ。論理体系*3そのものがそもそも異なるのだ。さらにその論理体系が信仰に由来する考え方だとの認識そのものが失われているのだから、コトダマイストにもどうしようもないことなのだ。生まれ育つ間に信じるようになった価値観は、自分で考え方を変えようとしない限り変えることはできない。


 それに、西洋の価値観も、時代がポストモダンとやらに変わってきたことで、今後変わってくるかもしれない。そしてその時日本のコトダマイズムはその独自性から脚光を浴びるかもしれない。


 いずれにしても、現実のところ異なる価値観が日本社会に混在しているなら、価値観が異なるということを認識しあい、お互いの論理を理解し認める必要がある。自分の価値観を説明し、両者共に理解しあっていくことが必要だろうと思う。

*1:「言霊」と「事霊」。「言霊」が言葉によって喚起される霊的作用であるのに対し、「事霊」は行為や動作や物体によって喚起される霊的な作用。例えば結婚式で「切る」と言わないのは「言霊」で、はさみや包丁を持ち出したりしないというのが「事霊」

*2:言挙げ:コトダマの作用を発揮させるために言葉を口にすること

*3:「論理」というより「非論理」体系かもしれないが