『規範フィルター論:日本消費者行動のメカニズム』

『規範フィルター論:日本の消費者行動のメカニズム−日中消費者行動調査の結果を踏まえて』

 主体のあり方について、先日友達と話をする機会があった。そこで説明したことの補足にこの論文を紹介したい。


 仕事柄、こういった類いの雑誌が回覧されてくる。中でもこの日経広告研究所報には、興味深い記事が掲載されていることがある。この論文も、私が興味を惹かれたもののひとつ。1年ほど前に発行されたものなのだが、ここに掲載されていた図表を見て私は「ああ、これだ」と非常に納得した。私が漠然と思い描いていた主体のあり方の違いが、その図表にはっきりと描かれていたからだ。


 この論文では、日本の消費者のタフさの特徴・構造を解明しようとしていて、日本人の規範意識規範意識のなさ)がそれにどう関係しているかを理論的に解明しようとしている。そしてその規範のありうようが、欧米と日本でどう違うのかを説明しているくだりにこの図表が掲載されていた。Markus & Kitayama(1991)から引用されたこの図表は、欧米と日本の個人主義集団主義の違いに関する先行研究の中から、最も簡潔でわかりやすい説明だとして紹介されている。

 ここでMarkus & kitayamaは、個人主義の欧米社会の個人を「相互独立的自己(Independent View of self)」、一方、集団主義の日本社会の個人を「相互協調的自己(Interdependent View of self)」と規定している。欧米においては、図表に見られるように、自己は、周りの他者(両親、兄弟姉妹、友人、同僚など)から相互に独立して存在し、意思決定も独立して行うわけであり、その結果、いわゆる個人主義的な自己が現出することになる。一方、日本においては、自己は、図表に見られるように、周りの他者たちとは切り離されずに境界線を互いに乗り越えあった、相互協調的な関係を持っており、その意思決定も相互に干渉しあうものとなる。こうして、日本においては、周りの他者を気にする、他者の影響を本源的に抱え込んでいる集団主義的な自己が生まれることになるのである。


 これら二つの自己タイプと規範との関係を考察すると、欧米の相互独立的自己の社会においては、自己や(それぞれが自己である)他者の外側に、規範が事前に存在すると考えられる。そしてそのような先験的規範の下、各個人が独立して意思決定し、行動するのである。一方、日本の相互協調的自己の社会においては、自己がどのように行動するのかを、自己一人では決められない。すなわち、周りの他者との相互作用の中で、とるべき行動、とらざるべき行動が事後的に確認されてくるのだと考えられる。日経広告研究所報237号P20より

 残念ながら元となったMarkus & kitayama(1991)の論文を読めていないのだが、この図表とそれに対する説明で、私が周りの人を観察していて疑問に思っていたことが腑に落ちた。その疑問は、どうしてある人達は自分自身の主体をいともたやすく他人に押し付ける(投影する・仮託する)のだろうというものだ。しかもそうすることに対して失礼なことをしているという自覚もなければ、悪びれもしない。当然の権利のように、自分自身がそう思うからというだけで、相手の立場の違いや考え方の違いなどすっかり無視して、自分と同じに違いないという前提を押し付ける。他人に配慮することを重視する人でも、この点に対しては驚く程配慮がない。


 主体を押し付けるのは止めて欲しいと説明しようとして私は苦労していたのだけれど、最近では理解できない人にはどんなに説明しても理解してもらえないものだと思って放っておくことにしている。それはそれとして、この論文は非常に面白かったし、特にこの図表は、説明すればわかる人に見せるにはわかりやすくて重宝する。