主体とケガレ

 ところで、話は少しそれるが、いい機会なのでついでに書いておく。主体とケガレについては、以前にもどこかに書いたような気がしたので探してみたら『言霊−なぜ日本に、本当の自由がないのか』(感想はこちら)で『言霊』の感想として書いていた。だが、改めて読み直すと、わかりにくくてあまりいい文章ではないので補足しておく。


 「和」と「ケガレ」は結びついた結果、協調性を乱す「主体」は、おそらく「ケガレ」として受け止められることがある。少なくとも、そのように感じる人たちがいる。


 「主体」が「ケガレ」と受け止められていると気付くきっかけとなったのは、『無垢の力』(感想はこちらこちら)のこんな文章だった。著者の高原氏は、折口信夫の小説「口笛」を分析し、

主体であることは「穢いむさい」のだった。『無垢の力』P42より

と書いている。折口信夫の作品の中で「穢いむさい」と表現されているからこう書かれているのだが、おそらく漢字通りの感覚で、まさに、「主体」は「穢れケガレ」と受け止められているのだ。この感覚は私にはわからない。


 冒頭で紹介した知人は、明らかに主体をケガレと感じているようで、自分自身に主体があることを否定するために、並々ならない努力を重ねていた。例えば、何かを選んでそれを特別に扱ったりすることは、それを選んだという主体が自分自身にあることになる。これを消すために、似たような他のことも選んだそれと同等に扱う。そうすれば、自分の中に主体が無いことが、少なくとも自分自身には証明されるようだった。


 けれども、主体は実はどうやったってなくならない。何かを決定するたびに、それを決定した自分自身の主体と向き合うことになる。昔は「死」は「ケガレ」だった。けれども、近頃では「死」はブラックボックス化されてしまい、多くの人の場合、損壊した死体を見る機会はそんなに無い。「死」の「ケガレ」感よりも、「主体」の「ケガレ」感の方が強ければ、「主体が無い状態」=「死」を望むこともあり得る。主体をなくそうと努力することは、最終的には死ぬこと以外に方法がなくなる。この考え方は極めると危ないのだ。


 前述の知人も鬱で、「何年も前に自分は死んだ」と言っていた*1。他にも、よく似た感覚の人が会社にもいて、この人は当時社長からイジメを受けていて様子が危なかった。PCの中に真っ赤な画面にものすごく小さな文字で予定をびっしり書き込んでいて、見るからにヤバかった。自殺しかねないから追いつめるのは止めてくれと社長に訴えたこともあったくらいだ。その後社長も変わり、好転したので当時のことを本人に聞いてみると、やはり自殺を考えていたのだそうだ。けれど何かの本を読んで思いとどまったという。本当に恐い。


 日本人には自殺が多いと言われている。自分が嫌いだと言う人もよくいる。こういう人には、本当は自分自身が嫌いなのではなく、自分に主体があることが嫌なのではないかと疑ってみてもらいたいと思う。もしそれが民族的な考え方の癖から来ているものならば、見方を変えれば克服し、乗り越えられるかもしれない。

*1:もちろんそんなことを言えるからには生きているわけだが