『泰平ヨンの航星日記』

あらすじ

隕石と衝突し、突如操舵不能になった宇宙船。しかも悪いことは重なるもので、なんと船はピンケンバヒヤ重力渦に突入、時間の流れがめちゃくちゃになった結果、月曜日の私からはじまって火曜、水曜、木曜……と無数の私が出現!てんやわんやの大騒動に……広大無辺の大宇宙を旅する泰平ヨンが出会うさまざまな奇想天外珍無類のできごとを、東欧SF界の巨星レムが奔放な筆致で描きあげた連作短篇集、待望の改訳決定版!

カバーより

 名高い名作SFのひとつ。改訳版が出たので買ってみた。


 スタニスワフ・レムの作品と言えば、『ソラリスの陽のもとに』があまりに有名だ。タルコフスキー監督によって映画化され、『惑星ソラリス』は不朽の名作SF映画となった。良くも悪くも、この映画のイメージがあまりに強すぎて、レムの作品自体にもなんとなく『惑星ソラリス』のイメージがつきまとってしまっていた。だから、『泰平ヨンの航星日記』がまさかこんなにもスラップスティックな作品だったとは、思っていなかった。確かに、原作の『ソラリスの陽のもとに』も、映画ほど陰鬱でしかつめらしいものではなかったような気がする。


 基本的にはこの作品は、『ほらふき男爵の冒険』のSF版だ。主人公の泰平ヨンが経験した、驚くべき宇宙の旅が描かれている。これが、大風呂敷を広げに広げてあり、バカバカしくて面白い。


 例えば最初に書かれている旅*1では、泰平ヨンが一人で宇宙船に乗って旅をしているが、修理のためには二人の人間が必要となる。ちょうど都合よく時空間のひずみを通過したおかげで、もう一人のヨンが出現する。けれどもやたらと非協力的で、修理は一向にできず、そのうち様々な年齢で何十人ものヨンが現れる始末。喧嘩は起こるは意見はまとまらないは、てんやわんやで手が付けられなくなる。果たして修理はできるのか?といった内容。


 かといって、ドタバタ喜劇だけかというとそうでもない。皮肉たっぷりで哲学的でもある。極端な状況を描くことで、様々な物事のはらんでいる根本的な矛盾をあぶり出して見せている。翻訳者があとがきでまとめている各作品のテーマがこれ。

 レムが作品中にばらまいた考察の材料で大きなものを拾っておくことで、今後の作品研究に参考となるよう、初出年と一緒に明記してみる。

  • 第七回目の旅   一九六四年 タイムパラドックス
  • 第八回目の旅   一九六六年 美食礼賛の無根拠性。地球生命の不完全性。
  • 第十一回目の旅  一九六〇年 サイバネティクス的見地からの機械知能の限界性。社会的規範の無根拠性。
  • 第十二回目の旅  一九五七年 文明の不条理性。
  • 第十三回目の旅  一九五六年 社会における道徳・倫理といった共同幻想の無根拠性。
  • 第十四回目の旅  一九五六年 娯楽としての殺戮。クローン生物の危険性。
  • 第十八回目の旅  一九七一年 宇宙論素粒子論の不完全性。
  • 第二十回目の旅  一九七一年 歴史の不条理性。
  • 第二十一回目の旅 一九七一年 自然科学と宗教の矛盾。宗教による人心の思考停止と強弁。
  • 第二十二回目の旅 一九五四年 宗教が持っている根本的な矛盾。
  • 第二十三回目の旅 一九五四年 コピー生物の持つ不条理性。
  • 第二十四回目の旅 一九五三年 技術の暴走と権力支配手段としての技術。
  • 第二十五回目の旅 一九五四年 論理的な手法の非普遍性。理解の不可能性。
  • 第二十八回目の旅 一九六六年 歴史的記録と普遍的真理とされていることの矛盾。

訳者あとがき――“レム学”の勧め P542、543より


 「第21回の旅」などは、考えさせられる内容で大変面白かった。着いた惑星で隠れ教団に匿われることになった泰平ヨン。この教団の修道院長と、宗教について様々な問答を交わす。ここでは身体改造が進んでいて、思うがままに改造できる。そんな世界で宗教はどうあるべきか。イーガンがよく取り上げるテーマと通じる部分もあり、興味深かった。


 そんな哲学的な問答の傍らで、宇宙船を象皮病にかかったオルガンに見えるよう、大まじめで偽装を施したりする。どんな偽装なんだか想像もつかないが、このギャップが面白い。


 こういったもの以外にも、この宇宙自体を創造したり、時を操って歴史にも手を加えたりと、空間も時空も超えて大風呂敷が広げられる。スラップスティックな作品を創りあげるには、よほどの知識と哲学的な思想がないと難しいのかもしれない。

*1:最初に書かれていながらも、なぜ「第7回の旅」なのか、ところどころ抜けている回があるのはなぜなのか、読み進めると何となくわかってくる