『敵は海賊・正義の眼』

 『敵は海賊』シリーズの最新巻。前作から実に10年ぶりの続篇だそうだ。個人的にはこのシリーズの軽妙さが、著者の作品の中では一番好きだ。『膚の下』(感想はこちら)も実にいい作品だったが、この作品のテーマも私にとってはとても興味深かった。最近の著者の興味は哲学的な方へ向いているようだ。彼の見方は好きだ。


 タイタンの深海にただよう、生物なのかどうかも判然としないメドゥーサス。タイタンクラゲとも呼ばれている。タイタン自然保護活動家のモーチャイは、このメドゥーサスの保護活動を展開していて、メドゥーサスの発見者リジーの恋人でもあった。この保護活動が海賊 匋冥ヨウメイ・ツザッキィの表の活動の邪魔になった。モーチャイの監視小屋を訪れた匋冥は、メドゥーサスを一掃し、モーチャイに対して宣戦布告する。


 匋冥とリジーが分析するモーチャイの人物像が、個人的に興味深い。モーチャイがリジーとは違って保護対象のメドゥーサスを愛していないこと、主義主張が借り物であること、だから発想や行動がずれていること、幼児性が抜けきれていないこと、保護という概念をふりかざしているにもかかわらず、人間を愛していず、自分自身も愛していないこと。似たような例を私も見たことがあり、観察して出した結論がこれと全く同じで面白かった。たぶん私自身が匋冥やリジーと考え方が似ているのだろう。


 おそらくモーチャイは、自分を愛していないからこそ、自分が価値を確認できる活動をすることで、「そんな活動をしている私」をかろうじて肯定することができるのだろう。活動をするということそれ自体が主目的だから、その活動の対象は何でもいいのだ。手段が目的となってしまっている。だからメドゥーサスやタイタンの自然環境に、活動の対象という以上の興味が無いし、ましてや自分が悪と定めた海賊の命など、気にも留めない。むしろ自分の活動(道)の邪魔となるものは許せないのだ。


 一方で、その主義主張が借り物だということは、自分自身でも何となくわかっていて、本物になりたいと憧れ願って、まずは型から真似して入っているのではないだろうか。型を真似ていればいずれは神髄に辿り着けるのではないかと、漠然と感じているのだろう。けれども技術的なことなら真似することで上達もするだろうが、情動の部分は真似できる類のものではない。


 正義をふりかざしたモーチャイが軌道からはずれたところに海賊課がからみ、物語は展開する。お馴染みのラテルとアプロとラジェンドラが登場し、その他にもタイタンのメカルーク市警のたたきあげの刑事と、広域宇宙警察からメカルーク市警にやってきた、海賊課にあこがれる訓練実習生が登場する。それぞれの正義感が披露されていて面白い。


 「正義」とか、「普通」とか、イーガン流に言えば「人間的」とか「健康」とか、こういったものはえてして自分の価値観という定規で他の人まで測りがちだ。気をつけていないとそれが、他の人に自分の定規を押し付けてしまうことになりかねない。測る定規が異なっているかもしれないということをちゃんと認識していることが、最低限必要なのだろう。