『ファウンデーションの勝利』(上・下)

アシモフの〈銀河帝国興亡史〉シリーズの続編を、3人の別のSF作家が書く〈新・銀河帝国興亡史〉シリーズの第3弾。


アイザック・アシモフは私の好きな作家だ。代表的なシリーズに〈銀河帝国興亡史(ファウンデーション)〉シリーズがある。これは壮大な帝国の衰亡とその後の暗黒時代を阻止するための活躍を描いたものだ。人の行動は個々には予測がつかないが、ある程度の規模の集団を長期的に扱えば、統計で予測が可能となる。こんな架空の学問である「心理歴史学」を核として展開したのが〈銀河帝国興亡史〉である。


心理歴史学を確立した天才数学者ハリ・セルダンは、トランター帝国の衰退とその後何千年も続く暗黒時代を予測した。回避できないこの暗黒時代をできるだけ短いものにするために、セルダンは財団(ファウンデーション)を設立し、百科事典の編纂という名目で知識を集約させたのだった。セルダン没後トランター帝国は崩壊する。しかしファウンデーションは、セルダンの予言を頼りに、次第に新しい時代を築くための中心的な存在となっていく。ところが心理歴史学で予測がつかなかった事態が起こり、人々はセルダンの予言に頼らず危機を回避する道を模索し始める。そして人類という種が繁栄するための、あるひとつの道を選択するのである。


一方、アシモフは「ロボット工学三原則」を提唱し、その後に書かれたロボットが登場する作品に、大きな影響を与えた。この三原則を扱ったアシモフの代表的な長編、『鋼鉄都市』は、SFと推理小説がどちらも本格的に楽しめる優れた作品だった。SFとしても広がりと夢があったし、意表をついた結末は推理小説としても見事だった。「ロボット工学三原則」も重要な位置を占めていて、推理の鍵として、物語の核として機能していた。私が最初に読んだアシモフ作品であり、アシモフの作品の中でも好きな作品である。


晩年になってアシモフは、自分の著作をひとつの壮大な未来史としてまとめるために、つなぎとなる続編を発表し始めた。3冊しか出ていなかった銀河帝国興亡史のシリーズに32年ぶりに続編が4作書かれ、また、ロボットものの続編2作が書かれた。銀河帝国興亡史の初期の3部作で人類が選んだ未来には疑問が投げかけられ、「ロボット工学三原則」にも、さらに上位に位置する「第零法則」が提唱された。『鋼鉄都市』に登場したロボット、R・ダニール・オリヴォーは、両シリーズをつなぐ橋渡し役として、20,000年という時を生き、セルダンとも関わることになる。


こうして二つのシリーズが一通りつながった1992年、アシモフは亡くなった。彼の作品をひとつの未来史として構成し直す作業は、それなりに完結したかに見えた。けれども、その試みをさらに続けたのが、グレッグ・ベア、グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリンの三人*1だった。いずれも大御所のハードSF作家である。そうして書かれたのが『ファウンデーションの危機』、『ファウンデーションと混沌』、『ファウンデーションの勝利』の〈新・銀河帝国興亡史〉シリーズである。


ところがこのシリーズはあまり面白くなかった。アシモフ作ではないせいなのか、何十年も昔の作品の続編なので元となるアイデア自体が時代遅れとなってしまっているせいなのか。そもそもロボットがキャラクター化して現在実現しているのを見ると、ロボットに対する恐怖と言われても陳腐化して見える。また、コンピュータとロボットとの違いや関係なども難しいものがある。1作目と2作目は模造人格やからくり(チクタク)の扱いがこなれ切れていないように感じるし、人々の「混沌」と呼ばれる反応にも無理があるように感じられた。また、当初はハードカバーで買っていたので、分厚くかさばり価格も高い割にはいまいちで、どうにも3作目を買う気力がわかなかった。このたび3作とも文庫化され、未読だった3作目も発売されたので、ようやく読む気になった。


結論から言うと、1・2作目よりはるかに面白かった。何より、本文の中にアシモフのさまざまな作品のエピソードが丁寧に織り込まれていて、ファンには嬉しい作りとなっている。特に私の好きだった『宇宙気流』*2も登場したばかりか、この設定をも伏線として取り込んでいることに驚かされた。また、アシモフの作品は、極めて重要なことであっても少人数だけで決定してしまうきらいがあったのだが、これにも触れて異を唱えている。前作2作で言及された不自然さばかりが目に付いた「混沌」についても、実は意外な真実が待ち受けていて、その種明かしに驚かされる。おそらくこれは続編を書く3人の共通の設定だったのだろう。アシモフの作品に流れる人類の傾向と矛盾することなく、うまく落とし込んでいる。それらも全て、試行錯誤し模索するロボットと人間の長年にわたる活動の歴史で、読み応えがある。


アシモフは初期に書かれた〈銀河帝国興亡史〉3部作で人類のひとつの未来像を提唱した。それはこの作品が発表された1950年代当時のアメリカ人にとっては魅力的だったのだろう。しかし今考えるとさまざまな問題点も見受けられる。東洋的な自と他の境界のあいまいさは、必ずしも良いばかりではないということも、ことさら感じる。晩年アシモフは、異なる未来を提唱してみせた。そしてブリンは、それをさらに推し進め、人類の多様的、解放的な未来像を描いている。しかもその伏線に、ファウンデーション編纂の百科事典を利用するという芸の細かさである。

単純なものは複雑なものに吸収される。下巻P283より


多様性の礼讃、複雑性の礼讃。やはりこちらに進むべきなのだと、私も思う。また、全体のためには個の犠牲もやむを得ないとするべきか、そうでないべきか。これもこの作品では大きなテーマのひとつになっているが、一概には答えの出ない問題である。大切なのはどちらが正しいという選択ではなく、どうバランスをとるかなのかもしれない。ブリンは、続編を書きやすい余地を残して筆を置いている。時代が進み、現在の考え方も陳腐化した時、別の作家によりさらに続編が書かれるかもしれない。


ちょうど映画でもアシモフ原作の「アイ,ロボット」が封切りされる。アシモフの没後、12年が経った。ここに来てアシモフも再評価されているのかもしれない。もう一度主要作品を通しで読み直したいところだ。

*1:Killer B's(三人ともBがつくので、そう名乗っているらしい)

*2:SFとしても推理小説としても面白く、地球が忘れられる程も未来という設定が印象的だった