『無垢の力』と『プラネテス』

 『プラネテス』4巻についてはこちらid:lepantoh:20040228とこちらid:lepantoh:20040312でその「過度のイノセンス」が指摘されている。『無垢の力―〈少年〉表象文学論』(感想はこちら)を読んだあとに改めてこの『プラネテス』4巻を読むと、『無垢の力』で解説されていた少年愛小説の構造と同じものが、この漫画のあちこちに見て取れる。二冊を読み比べると大変面白い。また疑問に思っていたことにうまく説明がついてすっきりした。

プラネテス』4巻Phase19~24

●共通点
プラネテス

  1. フィーのなりたい他者=「息子」「犬」「叔父」(大人社会から客体的な、つまり大人社会の論理になじめない弱者。反抗心の象徴でもある)。フィーは息子の目つきや蹴るというしぐさを真似する(同一化したい)。
  2. フィーは「サンダース」(=軍事的大人的主体)から同盟を求められるが拒絶する。
  3. 軍の中では「サンダース」は優秀で好ましい。反戦派で、軍の司令官に直接宇宙戦闘のむなしさを説得できる地位と志の高さを備えている。またメディアを自由に操れる実力保持者。
  4. 「理屈にならないあの感覚」と、読者に共感を求める。またその感覚を呼び起こす事例の列挙。
  5. 「狂ってる」「クソみたいな」「バカ共の尻ぬぐい」「クズみたいな」「クズ鉄の雨」など、嫌悪感を表す言葉をおびただしく産出(ちなみにこれらのものは価値がないと貶められているが、これらのものに価値を認めるとする価値観もありうる)。
  6. フィーは同一化したい「息子」「犬」に慕われ、フィー自身も「息子」「犬」を受け入れる。行方不明の「叔父」だけが欠けているが、「今もあなたは大人の心と一緒に子供の心を持ち続けていますか?」(P244)と叔父が以前と変わらないことを示唆。行方不明となった叔父は、社会的主体を全く持たない点において理想形態。

『無垢の力』

  1. なりたい他者=自分と相似の客体的な〈少年〉(はかない美しさの象徴)。(折口信夫江戸川乱歩
  2. 自分とは異なる、獲得欲望を持つタイプの「念者」から愛され賛辞される。しかしその「念者」を拒絶することで、「彼のようにはなりたくない自分」を主張。(折口信夫江戸川乱歩)
  3. 「念者」は優れた能力を持つ卓越した存在。(折口信夫江戸川乱歩)
  4. 読者に向ける「A感覚連想」のレッスン。徹底的に同じ偏向を持った口調・態度・例示の反復。共感する体験の発見で理由や正当性とは関係なしに「真実らしい感じ」を読み手に学習させる。(稲垣足穂
  5. 「おぞましいもの」を大量に産出。(江戸川乱歩
  6. 自分と相似の美少年と相互にプラトニックな憧憬を交わすことで、瞬間的に結ばれる。また共に自殺しようと計画する。(折口信夫江戸川乱歩)


 最初『プラネテス』のこれらのPhaseを読んだとき、なぜフィーはサンダースの申し出を断るのかが一番わからなかった。軌道機雷を本当に撤廃したいのであれば、サンダースと同盟を結んでも何の問題もない。「軌道機雷」の撤廃という目的は両者一致していてお互い助け合えるものだ。フィーはサンダースから情報の提供と補給を受けることができ、サンダースはフィーをメディア戦略に使うことで世論を操作できる。それなのになぜ、フィーはサンダースを拒絶するのか。


 『無垢の力』では、折口信夫江戸川乱歩の作品の構造として、こんな分析をしている。

それは、客体的に愛される「稚児」を主体的に求め愛する「念者」の役割を担う存在である。すでに告げたように、明治末・大正期の「少年」の側の自己愛とは、この「愛してくれる青年」を嫌悪しながら、彼なしには確認できないアンビヴァレントなものだった。『口ぶえ』の安良、『乱歩打明け話』の語り手はいずれも、この「愛してくる青年」を自分からは愛さないし、彼のようになりたいとも思わない。ただし、結果として拒絶する相手ではあっても、主人公を愛する念者である彼らはいずれも容姿に優れあるいは絵の才能や成績など、優れた能力を持つ、卓越した存在であることが報告されていた。『口ぶえ』と『乱歩打明け話』は、そのような「高級な念者」からの性欲を伴う獲得欲望的求愛を退け、自己と相似の美少年と相互にプラトニックな憧憬を交わすことで、瞬間的に結ばれる、という幻想を語るものだった。『無垢の力』P168より


 サンダースは「念者」だったのだ。フィーの活動の正しさを証明するためには「ちゃんとした大人」の承認がいる。だからサンダースから同盟を持ちかけられる必要がある。しかしサンダースを拒絶することで、「ちゃんとした大人」とは違うのだという線引きが、ここではされている。


 またフィーは「理屈にならないあの感覚」という表現で、サンダースや軌道機雷に対する嫌悪感を表現し、読者の共感をうながしている。これは稲垣足穂の「A感覚」という呼び方や機能と似ている。

足穂の方法は多くの「気掛り」を並べ、読者がどこかで反応するのを待つ、というやり方なのだ。「気掛り」を共有させた後、それこそA感覚なのであると強引に語ることで、各々の読み手自身が、意味的関連の道筋を学習するようしむけるのである。『無垢の力』P115より


 サンダースは、なぜカーネル・サンダースに似た容貌や名前で描かれているのか。その必然性はわからなかったことのひとつだが、共感を得るために提示された「気掛り」のひとつだと考えると納得がいく。


 サンダースとの同盟を断る必然は論理的にはないため説得力に欠ける。しかし断らなければフィーは「ちゃんとした大人」になってしまう。断る必然性がもっと欲しい。そこで誰もが知ってるカーネル・サンダースと似た容貌・名前の人物をわざわざ描いて「ガソリンスタンドでチキンでも売ってな!!」(『プラネテス』P133)と言ったのではないだろうか。なぜならこの台詞にだけは容易に読者の共感を得ることができるからだ。つまり説得力に欠ける行為を共感によって補強しているのだ。サンダースから提示された内容を吟味させないために、読者の鼻先にぶらさげられた、思考停止装置ではないだろうか。

プラネテス』Phase18

 フィーのエピソードの直前に描かれたPhase18「グスコーブドリのように」にも、『無垢の力』で解説されている構図が同様に見られる。おそらく形を変えて描き直したものなのだろう。特にこちらでは客体を見事に極めた人物が登場していて、興味深い。


●共通点
プラネテス』Phase18「グスコーブドリのように」

  1. 宮沢賢治という人道的・博愛的イメージの高い作家の権威を拝借。
  2. ヤマガタのなりたい他者=「グスコーブドリ」(みんなを幸せにしたいと願って自己犠牲をはらって死んだ、美しい心の持ち主の象徴)。
  3. ヤマガタはすでに悲劇的な事故で死んでいて、ヤマガタの主張を他者が代弁することで、客体性を実現。ヤマガタは後ろ姿2コマしか登場せず、顔すらわからないという、徹底した主体のなさ。
  4. 「ヤマガタはグスコーブドリだった」とロックスミスが保証する。一方「ロックスミスはグスコーブドリなんだよ」とヤマガタが保証する。「グスコーブドリ」同士の相互保証。
  5. ヤマガタは獲得欲望むき出しの「妹」の愛を拒絶する。なぜならば彼は「グスコーブドリだったから」。
  1. 〈少年〉の代わりに「天皇」という「歴史的産物」を利用して権威付け。(三島由紀夫
  2. なりたい他者=自分と相似の客体的な〈少年〉(はかない美しさの象徴)。(折口信夫江戸川乱歩
  3. 客体を極めると死ぬしかない。死者は主張しない。死への憧れ。(折口信夫江戸川乱歩三島由紀夫
  4. 「美しい私」を保証する他者の美しさを告げることでその保証は偽りがないとする破綻した論理。「美しい私」同士の相互保証。(折口信夫江戸川乱歩
  5. 自分とは異なる、獲得欲望を持つタイプの「念者」から愛され賛辞される。しかしその「念者」を拒絶することで、「彼のようにはなりたくない自分」を主張。(折口信夫江戸川乱歩)


 客体になりたいと目指す者が自己の理想像としてああなりたいと語るとき、そこに主体が入ってしまう。そのジレンマがここではうまく回避されている。ヤマガタはすでに死んでいて、自分で主体を持って語ることができない。また、不慮の事故の犠牲者という悲劇性も兼ね備えている。この客体を描ききった手法は『無垢の力』で分析された小説にも登場しておらず、高い評価を得て良いのかもしれない。


 客体を理想として死にあこがれる自己愛は、『無垢の力』で分析されている。

貪欲さ、欲望の熾烈さ、そうした「主体」の醜さを嫌悪した作者は、求めない・貪らない無力な状態を望ましいものとして提出したいと考えた。だが、その無力な存在が他者から望まれるものでなければ、ただ弱いだけの無価値なものとして見捨てられてしまう。弱さを望ましく見せるためにはどうしても少年達は美少年でなければならなかったし、他者から欲望され羨望される者でなければならなかった。(中略)市彌と信夫は、僅かな強さの兆しをも自ら捨てさるため心中して果てる。それにより美しい弱さは極限に達した。死者より弱い者はないからだ。
 自己愛は自己の弱さを誇りうる条件を得たとき、その機能を最大限に発揮する。自己愛の機能とは、自己を規定する外部のあらゆる権力を退けつつなお誇り高くありたいという不可能な願望を立ち上げることだ。『無垢の力』P72より


 容姿の美しさこそないものの、悲劇的な事故で英雄的な死を実現したヤマガタは、客体を求める自己愛の理想像だ。死者の彼は自分から語ることはない。代弁するのがロックスミスである。ヤマガタとロックスミスが相互に保証しあうことで、「ヤマガタ=グスコーブドリ=ロックスミス」という構図が完成し、ロックスミスの言葉はヤマガタの言葉となっている。


 これと同様の構図が『無垢の力』でも指摘されている。江戸川乱歩の作品についてだ。なぜ「宇宙船しか愛さない」はずだったロックスミスが「みんなの幸せを願うグスコーブドリ」と言えるのか、その根拠がさっぱりわからなかったのだが、この解説と照らし合わせるとようやく理解ができる。

この語り手にとって「美しい者」たちは「美しい者」たち同士の選ばれた領域に存在する、あるいはすべきだ、というような認識が最初にある。そのさい、容貌容姿は絶対的な差別の根拠とされており、その美しさによって選別された者たちは、もはや質的に異なる存在である美しくない者に心を向けることがあってはならない。
 よって、美しい彼らが心惹かれる者とはとりもなおさず彼らの領域に入るべき同族である。『無垢の力』P98より


 本来なら、「美しいと保証する人」=「美しいと感じる人」であり、「美しい人」とは限らない。だから「保証した人物が美しかった」という理由は美しさの証明にはなりえない。同様に、ヤマガタがグスコーブドリ(自己犠牲によりみんなを幸せにした人)であるとする根拠をあげるのなら、ヤマガタの行動で幸せになった人がヤマガタからこんな恩恵を受けたと語らなければ説得力がない。「保障した人物がグスコーブドリのようだった」という理由はグスコーブドリの証明にはなりえない。


 しかし江戸川乱歩の前提と同様の隠れた前提が働いていると仮定すると、理解しやすくなる。それは「グスコーブドリのような美しい心の持ち主は、グスコーブドリのような美しい心の持ち主しか認めない」という前提である。サンダースを拒絶したのと同様、格が違うから絶対の線引きがあるとする論理である。これなら「宇宙船しか愛せない」ロックスミスであっても、「グスコーブドリのような」ヤマガタの保証さえあれば、たやすくグスコーブドリとなるのである。


 また、その後に展開される妹カナが拒絶されるシーンにもこの前提はきっちり働いている。

君の愛した人はグスコーブドリだったんだよ
君のその愛が彼の心をとらえた事などないのだよプラネテス』4巻P57〜59より


 この二つの文章の間には「だから」という接続詞が想定される。でなければわざわざ「グスコーブドリ」を持ち出す意味がない。しかし、宮沢賢治の描いたグスコーブドリが自分の妹のネリを愛さなかったかと言うと、実はそんなことはない。原作はこちらhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1924_14254.htmlで読めるが、原作のブドリは妹やその家族やその他多くの農業従事者を愛し、その命を救うために自己犠牲をはらって死んだと読める。「グスコーブドリだったから愛さなかった」という論理はなりたたず、むしろ「グスコーブドリだったら妹を愛しその幸せを願ったはずだ」と思える。そもそも身内の妹ひとりすら愛し幸せにできないヤマガタが「みんなの幸せ」を願うグスコーブドリのようだったと言われても、説得力がない。


 しかし、「グスコーブドリのような美しい心の持ち主は、グスコーブドリのような美しい心の持ち主しか認めない」という隠れた前提があると仮定すると、「グスコーブドリのようなヤマガタはグスコーブドリのようでない妹カナを愛することはない」という論理展開が納得できるものとなる。けれども江戸川乱歩の論理展開が破綻していたのと同様、こちらの前提自体も破綻していれば、何をもってグスコーブドリとするのかという根拠そのものも破綻している。

まとめ

 『プラネテス』はきっと、『無垢の力』や少年愛小説を意図的に真似たり、それらから影響されたりしたわけではないだろう。それは彼の画風が耽美的なものや少年愛物に影響されたようには見えないこと、独自に工夫を凝らした表現がきちんと計算されて描かれていることなどからうかがえる。おそらく、この表現方法は作者が独自で編み出したのだろう。


 にもかかわらず『プラネテス』は、少年愛について書いたいくつかの文学と非常によく似た構造で表現されている。論理展開の破綻の仕方もそっくりだ。これは意識してそうなったのではなく、「無垢な他者と同一化したい」と願う人たち共通の思考構造ではないだろうか。


 しかし、「自己主張で他者を傷つけたくない」と願っていながらも、彼らは獲得欲望を持つ他者を拒絶したり、自己をおぞましいものの上に配置して優越性を保ったりする必要に迫られる。それはコンプレックスの裏返しでもあるのだろうが、結果的に自分の主体で他者を傷つけずにはいられない。そしてなりたい自己像から逸脱するか、極めて死ぬしかなくなってしまう。


 『無垢の力』では「無垢への憧憬」は幻想だと戒められていたし、客体を極めることの危険性も指摘してあった。一方では客体を受け入れず主体のみ主張すること、自己の客体を認識しないことの危険性も指摘してあった。ここでは新たな自意識のあり方として「客体性をも肯定的に包含した主体」という価値観が提示されている。

「無力な自己」ゆえの価値を認める意識の方法は、ときに退嬰的で無批判な全面的自己許容を引き起こすだろう。だが反面、自己の客体性の自覚と弱さの価値の承認は、「主体」の暴力性を意識する契機ともなる筈だ。『無垢の力』P256より


 しかし「無垢への憧憬」を表現することの価値はここでも評価されているし、それを書かれたとおりに全面的に受け取るだけでなく、批評することの価値も評価されている。私自身これほど考えさせられたものはあまりなかったので、『無垢の力』と『プラネテス』のこの二冊には感謝したいと思う。