『少女領域』

 ここでは実際の性別や年齢とは関係なく、〈少女型意識〉のことを〈少女〉と呼んでいる。この意識の見られる文学が、ここでは時代を追って紹介されている。〈少女型意識〉とは、自己決定をほとんど禁じられた不自由な被支配的存在である少女に発生した近代的意識で、「素敵なことだけをしたい」、「素敵になりたい」という、自由と高慢が最も望ましい割合で組み合わさった場合の種々相だという。またそれは、「大人の男とその世界への批判」としても機能している。


 〈少女型意識〉は1999年現在の日本において見られる意識を作者が命名したものらしい。これが1910年代の日本において見られたものを、作者は〈少年型意識〉として『無垢の力』(感想はこちらこちら)で紹介している。『少女領域』の方がのびのび書かれた印象があるが、無垢な客体に憧れる者と主体獲得を望む者との橋渡し的な役割としては、『無垢の力』の方が説得力があるように思う。どうも私には『少女領域』で語られている「素敵」はあまり素敵には思えず、『無垢の力』の〈少年〉方が、賛成はしないまでも納得しやすい。これはおそらく私が主体獲得サイドで、作者の立場と異なるからなのだろうけれど。

 また、〈少年〉の場合は無垢を憧憬していたのに、なぜ〈少女〉の場合は自分の領域を「素敵」で満たそうとするのだろうかという疑問がぬぐえない。どうもこのことが、やはり従来のジェンダーによる役割分担の延長のように感じられ、しっくりこない。リアル少年の場合には「主体を獲得せよ」という抑圧に対して、客体を憧憬するという抵抗があった。しかしリアル少女の場合の抑圧は主に「客体で居よ」である。それに対して客体をそのまま受け入れている。自由を望みつつも客体というある意味有利な立場だけは守り通す。そこに虫の良さを感じてしまってしっくりこない。


 それに「素敵」の内容が卑近な気がする。例えば『ハイブリッド・チャイルド』で紹介されている「この世界は見方さえあやまらなければ、とてもきれいなのだ」という文章はとてもすばらしいと思う。にもかかわらず、そしてこれがSFなのにもかかわらず、また機械で肉体を持たないにもかかわらず、母殺しがそれに続く。こういったあたりがとても身近すぎるような、身の回り過ぎるような気がするのだ。私はSF好きだが日本人作家の書いたものはほとんど読んでおらず*1、この作品も読んでいないのだけれど、母の意識を持つものを殺すというものでなくても、もっと別の母的な何かでも良かったのではないだろうか。もっとも実際にこの作品を読めばまた感想は違ってくるかもしれないのだが。


 作者と私の立場は異なるものの、少女を「救済者」の役割へと封じ込めがちな男性作者による作品への批評には同感できる。日本人男性は本当にこの構図が大好きなように感じられる。室生犀星作の『或る少女の死まで』に見られる、今を我慢し成功する未来を想像する立身出世主義の男性を少女という清い永遠の存在に癒されるという構図だ。「現在なき・生なき男性」はその生き方のために自分自身を濁ったように感じていて、少女に清浄さと救済のイメージだけを求める。彼女が何を考えているかは意味を持たず、人格も持たない。作者はこれを、

これが悪質なのは、非人格的な少女によって清められ救われると語ることで。自らの生なき肥大志向の矛盾を隠蔽してしまうからに他ならない。P154より

それはまず、男性にもある自在さを排除し、次に、少女を「救済者」の役割へと封じ込めるP278より

と批判している。まったく同感だ。救済者にされるのも救済者と比較されるのもうんざりなので、こういうやり方はせめて虚構相手だけにとどめておいてもらいたいと思う。


 ところで、id:lepantoh:20040513さんに教えていただいた週間書評さんの書評http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/syohyo/191.htmlが、私にはとても印象的だった。


 ひとつは、「無垢」と「純粋」は異なり、「純粋」は不純物の排除なので不寛容なの
だという指摘である。これはナチスの陸軍幼年学校を描いた伝奇小説『魔王』の作者ミシェル・トゥルニエ氏の指摘らしい。「純粋」とは「無垢」の堕落した姿であり、「無垢」を渇仰するつもりで、じつは「純粋」という名の不寛容にスライドしてしまいかねないという危険性が指摘されている。


 もうひとつは「一人の子どもの無垢を描くことは、子供共同体の神聖を描くこととは違う」という指摘で、こちらは小谷野敦氏が『反=文藝評論──文壇を遠く離れて』(新曜社)で書かれていることのようだ。

小公女セーラのようなヒロイン像は、高原や嶽本野ばらが強調する「雄雄しく孤立する乙女」のイメージに近い。ところが、近代のある時期から現代にかけては、むしろそういう例外的少年少女を描くのではなく、〈子供共同体〉自体を神格化するようになってきた、と小谷野は言う。

曰く、「大人は判ってくれない」、曰く、「子供は子供同士」。この種の考え方は、言説としてのみならず、マンガやテレビドラマや映画の形をとって、執拗なまでに繰り返されてきた。

たとえば「卒業」などの歌で「子ども=無垢、大人=汚い」の図式を執拗に繰り返した尾崎豊などは、じつは逆に、「教育系」論客の言うことに洗脳されて育ったあげく、ついにはそのイデオロギーを大真面目で布教・広報するにいたった、「教育系」の広告塔にほかならないことがよくわかる。

など、とてもうならされる指摘だ。


 最後に、あとがきに登場するモダニズムというキーワードがよくわからなかったので調べてみたのだが、宮台真司氏のこの説明http://www.miyadai.com/index.php?itemid=147が分かりやすいように感じた。

■因みにモダニズムとは何か。これを近代主義と訳すと間違う。一口で言うなら、近代化の眩しき光を希求しつつ、急速に失われゆく共同体の闇への執着との間で引き裂かれる心性である。日本で言えば泉鏡花的なもの、江戸川乱歩に代表される『新青年』的なものだ。


 おそらく作者が執着しているのは「共同体の闇」ではなく「客体の魅惑」ということになるのだろう。けれども共同体であることと客体であることは密接に関連していて分かちがたい。私にはその違いが見極めがたく、どうしても「共同体の闇」の方が目に留まってしまう。だから『少女領域』で語られている「素敵」な生き方に対して、「うーん」とうなりたくなるのかもしれない。

*1:私は日本人作家の書くものはどうも湿っぽい気がして昔からあまり読む気がしなかったのだが、最近になって、日本独特の個の境界のあいまいな村的な感覚が苦手だったのだと感じている