『無垢の力―〈少年〉表象文学論』

こちらid:lepantoh:20040513#p1で紹介されている『無垢の力―〈少年〉表象文学論』。面白そうなのでさっそく購入してみました。こちらid:hizzz:20040524でも紹介されています。


 受け身ではかない自己でありたいと〈少年〉に憧憬する心情を、主に明治末期から大正時代、昭和初期に書かれた小説から読み解くことで、無垢の本質をあらわにし、その価値を再評価しようと試みる評論。折口信夫山崎俊夫江戸川乱歩稲垣足穂三島由紀夫といった作家がここでは取り上げられている。


 私はあまり評論というものを読んでこなかったのだが、この論文が巧みなせいか、たいへん面白く読めた。難しすぎず、長過ぎず、論証の組み立て方にも無理がなく、それでいて導き出される結論には驚かされる。また一方的な見方に陥らないようきちんと反論もあげられつつ、うっかり常識と思っていた価値観にもそれは西洋近代のもたらした価値観に過ぎないとメスが入る。その指摘にもまた驚かされる。


 無垢な客体と同一化したい、「自己主張しない弱々しく美しい者」を自己の理想として愛したい。しかしこの願い自体がそもそも矛盾している。客体は主体を持たないからこそ客体で、自己主張しないことを理想として極めると、死ぬしかない。また同一化したい、愛したい、と願った時点で客体から主体へと変わる。さらに自己の理想像を語るという行為も客体としては失格である。したがってその表現には困難を伴う。


 それをなんとか表現しようと苦心した試みが分析してあり面白い。主体としての語りをできるだけ少なくするために風景描写の中に心情を滲ませてみたり、清浄さを際立たせるために対比として主体を持つものの「個であるゆえの責任=汚れ」を醜悪なものとして強調して描いたり、引っ掛かりそうなイメージを列挙することで読者を引き込もうと試みたりと、様々である。


 その中で三島由紀夫が「憧憬の法則」を論理的に突き止めた作家としてとりわけ著者に評価されている。彼の方法は無垢を極めて死ぬでもなく、周囲を醜悪だとして貶めるでもなく、美の規定外や異なる美の位置にいるものを切り捨てるでもない。
 「甘美な想像」に留めず、客体を自己に感じることの生々しい嫌悪をも語りえた点で『仮面の告白』は貴重である(P191)、と著者は語る。


 また作家としての役割を彼が放棄してしまったことが惜しまれている。

「敗戦後的現実」を前にしたとき本当に考えねばならなかったのは、捨て切れないことが自覚されている「無垢への憧憬」を判断停止せず分析し続けるための方法であった筈だ。
 それは「獲得欲望」の言説を批判すると同時に、無反省な暴力をも生む「無垢」という愚かさへの愛を自らのものとして偽らず剥き出しにし、その同じ愚かさへの愛が読み手のものでもある事実を見せつけるということだ。P222、P224より


 無自覚に無垢を求めることは、ときに想像を絶する無残な暴力と卑劣な自己欺瞞を生む。そういった危うさもきちんと指摘しながら、それでも無垢を表現することには価値があるのだという主張には説得力があったし、また客体を自己の理想とする試み自体が客体を強いられることへの批判であり反発であるという指摘には正直いって驚かされた。


 この時代の〈少年〉達のように、主体獲得の理想像と客体強制の現実という相反する状況に絶えず直面するのは、現在では少年ではなく女性である*1。強いられる客体に反論し主張するだけがただ一つの解決策ではなく、客体を 理想 魅惑(理想ではなく魅惑でした。意味がまったく変わってしまうので訂正しました。5/27)とする価値観を選択することも解決策となりうるのだとする解釈は新鮮だった。選択肢の幅が広がるのは良いことだ。

*1:裏を返せば当時の女性には、客体しか求められなかった