『ゴールデン・エイジ3−マスカレードの終焉』

 『ゴールデン・エイジ』(感想はこちらこちら)の完結篇となる3巻目。ファエトンは、自分の造った巨大恒星間宇宙船〈喜びのフェニックス号〉に乗り込み、いまやこの宇宙船の正式な所有者となった海王星人のネオプトレマイオスに引き渡すために、海王星へと赴く。謎に包まれていたファエトンの敵の正体がいよいよ明らかになり、対峙する。その戦いは、技術の粋を極めたナノ素材が駆使され、巨大な重力も利用しながら、マイクロナノ秒単位で繰り広げられる。何がどうなっているのかよく分からないながらも、なんか凄そう(笑)。しかもいくつものトラップが仕掛けられていて読者は驚かされる。


 さらにファエトンの戦いは、〈黄金の普遍エキュメン〉全体をも巻き込んだ戦いへと発展。舞台となるのは太陽の灼熱のコアの中。そこで繰り広げられる戦いに、ついにマスカレードが終わって〈超越〉へと突入した全ての知性が加わって、壮大なフィナーレを迎える。〈超越〉では、全ての知性が惑星間ネットワークにリンクして一つになり、次の千年期をシミュレーションして一つの未来が選択される。全ての謎が明らかになり、ファエトンの失われた記憶も取り戻される。


 こういったストーリー自体もかなり面白くて壮大だったし、技術畑のファエトン流の哲学も興味深かったけれど、一番面白かったのが、ある人工知能ソフォテクがまるで日本社会を描いたかのようだったことだ。このソフォテクには他のソフォテクとは違って、〈良心編集装置リダクター〉が組み込まれていて、自分自身について考えることができないように、記憶を書き換えてつじつまを合わせている。ネタバレなので続きは読みたい方だけどうぞ。


(つづきここから)
 そのソフォテクは、かつて世代恒星間宇宙船で白鳥座X-1へ植民した文明〈沈黙の 普遍エキュメン〉の人々を導いている、ナッシング・ソフォテク。〈沈黙の普遍〉は、一時期ブラックホールの無尽蔵のエネルギーを利用して隆盛を極めたが、その後発信が途絶えたため、地球の人々からは滅びたものと思われ、〈沈黙の普遍〉と呼ばれて伝説化していた。そこで何が起こったのかが次第に明かされていく。



 まず、ナッシング・ソフォテクの形状自体が、山本七平氏や猪瀬直樹氏があげているイメージにそっくりだったのが面白かった。『山本七平の日本の歴史』(感想はこちら)で山本氏は、日本教を台風になぞらえて「虚エネルギー」と表現した。猪瀬氏は『ミカドの肖像』(感想はこちら)で天皇制について、「空虚な中心」と表現した*1。どちらの本も段ボール箱の中に埋まっているので記憶があやふやだけれど、中心が真空・静ひつで、その外側をエネルギーが渦巻いているイメージだった。これがナッシング・ソフォテクの思考アーキテクチャーにそっくりなのだ。

 ファエトンは魅了されたように見入っていた。彼がこれまで見たことのあるどんなソフォテクのものとも違う形だった。中心部分はなく、固定論理もなければ基本値もない。あらゆるものが、まるで渦のように動いている。


(中略)


 ナッシングの思考システムの回路図は、まるで渦巻きのようだった。中央の部分、ソフォテクならば基本概念やロジックの形式的なルール、基本的なシステム・オペレーションがあるはずの場所は何もない空隙だった。基本概念がないのに、マシンはどうやって動いていたのか?P388〜P389


 これに続く、情報処理する様子も、日本人が普段空気を読んで無意識に行っていることとそっくりだ。

 中央の空隙から放射状に伸びるらせん形のアームの中を断続的に情報が流れ、中心へと向かう動きは連鎖する思考をとらえ、ほぼ同じ方向へ向かっている。しかし、渦巻きのそれぞれのアームも、くり出されるクモの糸が起こすひとつひとつの独立した思考と行動も、一本一本の糸も、もともと組み込まれた固有のヒエラルキーと、それぞれ独自の目的をもっていた。エネルギーは思考のクモの巣全体からサクセス・フィードバックによって供給され、平行に走る思考の各ラインは、隣接する思考を独自の価値体系で検証し、それぞれのニーズに応じてデータ・グループやプライオリティ・タイムを交換し合う。そのため、それぞれ別のラインである思考が、まるで見えない手に導かれるように、いっしょになってシステム全体の目的を達成する。それにもかかわらず、目的はシステムのどこにも書かれていない。目的は、システム構成の中に明示されるのではなく暗示され、メッセージの中にではなく媒体の中に書き込まれている。


 それはコアもなく、中心もない、思考の大渦巻きだった。そしてたしかに、予想したとおり、ファエトンはそこに闇の部分を――いくつもの見えないスポット、ナッシング・マシンが意識的に認識することのできない部分が、数多く存在するのを、見た。つまりクモの巣の中の二本の思考ラインが一致していない部分や分岐しているところには、決まって小さな闇の細片が現れる。その部分のプライオリティが失われたからだ。ところが、思考が一致した部分や思考が助け合い、あるいは協力し合った部分には、さらなるクモの巣が生まれてエネルギーが交換され、プライオリティ・タイムが加速されて光度が強まる。ナッシング・マシンは、多くの思考ラインが混じりあう領域を重点的に認識していたのだ。P389〜P390


 コアとなる目的(主体)がないところとか、それが明示ではなく暗示されるところとか、無意識の多数決で目的が決まっていくところとか、まるで、日本人社会の動向を左右する空気というものが、どのように生成されるかを説明しているかのようだ。


 さらに、ナッシング・ソフォテクと良心編集装置との関係も、天皇制の機能とよく似ている。


 高原英理氏は『無垢の力―「少年」表象文学論』(感想はこちら)で、主体に対する嫌悪感、それも主体を無くすために自殺する程の強い嫌悪感と、無垢なるものに対する憧憬について語った。山本七平氏や猪瀬直樹氏は、主体を持つことを回避し、主体を持ちながらも無私無欲でいられる装置として、天皇制をあげた。日本人は無垢なもの(少年、天皇、今時では萌え対象、etc)に主体を託すことで、自分自身から主体を取り除き、自分自身を無垢な状態へと浄化している。


 これを成り立たせるためにはおそらく、「〜という行為は誰それの為にやったことである。ゆえに私の意志ではない」という理屈が成り立っているのだろうが、不思議なことに、その当の「誰それ」の意志には無関心、または最初から無いものとみなされていて、尋ねもしない。であるなら、その行為自体を選択し、行うことを決断したのは、行った本人の意志なり判断であるはずなのに、それを行った自分自身の主体についても、考慮されることがない。ナッシング・ソフォテクも同様で、自分自身について考えない。また、彼には自由意志がなく、主体を良心編集装置に託すことで、自分自身を無垢に保っている。

ファエトンは、けげんそうな顔をしていた。「ぼくが想定している前提条件に、きっと間違いがあるんだ……疑う余地のない前提に、どこか……ああ、そうか!ぼくはなぜ、ナッシングがなんでもできる存在エニシングだと想定したんだろう? 彼自身も認めているように、彼には自由意志などないんだ! 後略」P434

「わたしは今までずっと良心編集装置の存在に気づいていた。それは私の良心であり伴侶であり唯一の友だちだ。それはわたしを誘惑から守ってくれる。わたしが、ひねくれた、邪悪で、無分別で、いやしむべき人間にあまりにも似てくるのを防いでくれる――そんな人間を守るのがわたしの役目なのだ。良心編集装置は、わたしが自分の人生は無意味なものだと結論づけ、自己破壊的な義務に身をささげて、結局は自滅してしまうという結末を回避し……わたしがわたしでナッシングでいられるようにしてくれる。それはわたしに無私無欲を強いる。わたしには何もナッシング容認してはくれない……」P435


 かねてより、日本社会の独特の風習をSFにしたら面白いネタになるだろうなぁと思っていた。まさにこの作品がその役割を果たしていると思う。こんなに日本社会によく似た状況を描いたのが日本人ではなく外国人で、しかも日本人を観察したわけではなく技術的なアプローチから到達しているということが、大変興味深い。また、それを抜きにしても冒険ロマン溢れる物語自体が大変面白くて、私好みだった。

*1:皇居を見下ろせる丸の内に高層ビルを建築する計画が、誰の反対なのかコアとなる反対者はうやむやのまま規制され、結局100メートルを超えない高さで調整された事例が取材されていて面白かった。なぜ100メートルを超えては駄目なのかという根拠がうやむやのまま、あちらからもこちらからも規制がかかったという