向き合うということ

 興味深く読んだ書き込みを二つ。

その1

http://d.hatena.ne.jp/narko/20041021#p1

多分紀里谷さんって父親に対するコンプレックスとかがあってそれがテーマなんだろうけど

それだって裏返しの甘えだろって気がする。状況を引き受けないための。

(中略)
もしかして紀里谷さんは自分の意見がオリジナリティあると思ってるかもしれないけど

違うんですよ。この甘えた感覚って日本人のマジョリティの感情なんですよ。

戦後から一貫した。

 これはすごくわかる気がします。甘えや傷付きやすさが優しさや愛とすりかわっているように思えます。そしてそれがマジョリティの感情だというのも実感します。

その2

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20041022#p2

〈1〉上の妻夫木くんのように、まったくの他人として冷静に語るパターン
〈2〉その人物と同一化し、あまり他人として語れないパターン
〈3〉役柄の人格にはまったく興味ないかのように、一言で「○○な感じの人」とさらりと言い、それ以上突っ込むと、「あとは監督の言うとおりにやってただけです」と言ったりするように、あまり興味なさそうなパターン

 これは「他者」との距離の取り方の違いだが、これが通常の自他関係と違うのは、その他者が実在しないということだ。この他者とは「架空の他者」である。役者とは、そのような「架空の他者」になりきる仕事で、演じることとは自らの身体を「他者化」するという作業だ。
 また、上の三つのパターンは、お芝居にあたって他者の内面性をどの程度踏まえるかという違いでもある。

 〈1〉は、「他者性を踏まえた上での自己確立」みたいな感じで、いわゆる近代で理想とされる個人とはこのような存在のことだ。

 〈2〉は、他者への同一化で、「感情移入」というよりかは「転移」に近い。自己が他者に行きっぱなし。「思いやり」の肥大と自己愛が相乗したゆえに、他者が自己の仮託対象にしかなっていないパターン。

 〈3〉は、内面を踏まえずに、行動だけを判断するということ。自覚的かどうかはさておいて、内面には踏み込まない。

 で、日本の現状での自他関係で目立つのは、男性が〈3〉で、女性〈2〉。つまり、内面がない男の子に対し、自己を他者に仮託するだけの女の子というものだ。このような男女がカップルになるという構図はそこらじゅうで見受けられる。『花とアリス』での花と宮本くんの関係はラスト近くまでこの関係だ。共依存は、〈3〉と〈2〉を激しく往還する男性と、〈2〉の度合いが強い女の子。また、福祉系、看護系の女性にも〈2〉が多いと感じる。


 自己と他者の距離の取り方の違いは、ずっと考えさせられてきたことだったので、とても興味深く読みました。


 というのも、〈3〉かつ〈2〉のタイプの人とのコミュニケーション不全に苦労したことがあったからです。その人は自己が他者に行きっぱなしで、それは良いにしても、相手も同様であるはずだという思い込みがあり、それが相手の主体をないがしろにしていました。相手が自分と感じ方が違い、価値観も違うということが尊重されていなかったのです。


 〈2〉ではまずいということはようやく分かってもらえたのですが、今度は〈3〉に転び、まずかったと感じた行為を取りやめる結果となりました。それは自分からはコミュニケーションをとらないというもので、コミュニケーション不全という問題は、全然解決しませんでした。一方的に自分を押し付けることも、一方的にコミュニケーションを取らないことも、相手不在という点で、まったく同じものです。


 まずかった原因は他者を踏まえての自己確立からこれまで逃げてきたことにあり、また間違っていたのは行為ではなく動機の部分でした。自己承認のために他者を必要としていたことでした。自分に近しい人だと自分の一部となってしまうので、新しい人、かわいそうな人を次々必要としていたことでした。ただ、行為そのものは悪いことではありませんでした。間違った動機の上に積み上げられていたからまずかったのです。人によってはそれが有効な場合もあったでしょう。けれども行為を取り止めることで、せっかくひとつひとつ積み上げてきたものが無駄になろうとしているように思えます。


 内面を踏まえず行動のみを見ることの危うさは、行動に失敗したときに拠り所がないことにあるように思います。判断の基準が何を成し遂げたかになるので、失敗に弱い。けれども競争社会の中で目に見える形で成功できる人は、そんなに多くはないでしょう。だからこの方法では自分自身を肯定できない確立が高いように思います。また、物事を結果でしか測れないため、その過程でいかに多くの収穫物があろうとも、結果が悪ければ全て駄目だったということになり、一から白紙に返してしまっているように見受けられます。これではせっかく積み上げた努力が無になるため、もったいないと私には思えます。


 私が理想に思うのは、自己と他者の違いを見据えていったん区切って確立した上で、他者にも共感できるということです。自分の主体を自覚していようがいまいが、主体を他者に依託しようがしまいが、主体があることが好きであろうが嫌いであろうが、意識がある以上主体はどうしたって存在していて、個々人で違っています。取り繕おうとする本人の努力とは裏腹に、他人は意外と動機を見抜いているものです。人の行動は本来、行動のみが独立してあるのではなく、主体に裏打ちされたものが表面に現われているからです。


 「主体はどこにあるのか」という問いかけを私はずっとしてきましたが、それに対する答えは「自分からは行動しない」でした。自分の主体をよほど引き受けたくないらしいのです。それでも他者の主体まで嫌悪することは表面に出てこなくなったので、少しずつでも向上しているようには思います。主体を引き受けたくないという価値観は、私には生きる力に乏しく脆いように感じられ、理解しがたいです。すり合せることは難しく、待っていても時間の無駄であるような気もします。