『南極大陸』(上・下)
南極を舞台としたフィクション。解説では「自然文学(ネイチャー・ライティング)」というジャンルに位置づけられている。
作者はこの作品の前に火星三部作*1と呼ばれる長編を発表した。火星の植民をテーマとしたSFだ。舞台が火星と南極という違いはあるものの、その三部作とこの作品は、大筋がよく似ている。テラ・フォーミングを最低限に抑えながら厳しい自然環境の中で土地に根ざして生きていこうとする人々の姿が、どちらの作品にも描かれている。
まず南極に恋をする。すると心が引き裂かれる。上巻P9より
この小説はこんな印象的な書き出しで始まる。主人公 X は南極での仕事に限界を感じていた。全米科学財団(NSF)の科学者達に比べてASL社の一般野外作業補助員は取替え可能な部品扱い。また失恋の痛みも癒えていなかった。ある日運転中の南極点陸上輸送者を何者かに奪われてしまう。
X をふったヴァルはガイドの仕事に限界を感じ始めていた。クライアント達は南極大陸の歴史に名を残した探険家たちの足跡をたどろうとする。彼らのこだわりに疲れ、古いタイプの男性に疲れれていた。
そんな中、アイス・パイレーツによる一斉テロ事件が起こる。それをきっかけに、これまで隠れ住んでいた「フェラル(野生に返るもの)」と名乗る人々が自分達の存在を明らかにする。彼らは南極という土地で、自給自足をしながら土地に根ざして生きることをめざしている。南極条約が見直され、南極での労働形態も大きく変わっていくことになる。
こうした物語の筋に絡んで、南極での探検の歴史が紹介される。1911年に南極点に初到達したアムンセン、一ヶ月遅れて到達したスコット、初の南極大陸横断を試みたシャクルトン。これらがとても面白い。
中でも風水師で詩人でジャーナリストのタ・シュウによって語られるナレーションがすばらしい。彼は3人の業績よりも、その「宿命の生」でそれぞれどう振舞ったかに重点を当てて評価している。最も賞賛されているのはシャクルトンだ。彼は死んだライオンになることよりも、生きたロバになることを選んだ。
タ・シュウの見方はこの作品全体に流れるテーマを反映している。それは男性中心の一極的なものではなく、陰と陽のバランスが取れていることを重視した、寛容で自然に根ざした多極的な生き方である。
南極点到達第一号をめざした男たちのレースを思い出してみてください。滑稽ではありませんか?ほほえましいながらもやはり滑稽です。一九六九年の休戦記念日、六人の女性はまったくべつの解決策を見出しました。彼女たちは腕を組み、飛行機から南極点までならんで歩いたのです。そうすることで、自分が一番乗りだという主張ができなくなる。彼女達はこの方法が最善だと考えたのでしょう。彼女らの新しいストーリー。こうやって、南極における陽(ヤン)の支配、軍事的ピーターパン的支配は終焉を迎えました。そして南極は、完全なヒューマン・ワールドへと踏みだしていきます。男と女、陰と陽の均衡ある世界、ともにあちらへこちらへとうねる世界、そう、いまわたしが話しているこの世界へ。下巻P339より
また彼はアメリカ人が協調と充足を身につけ、破局を避けられるかどうかを憂う。一人ひとりが協調の一端をにない、特に科学は信頼がつくりあげる共同体でなければならないと説く。また別の箇所では別の人物により科学が政治を牛耳っていることも述べられ、科学すら、何を信じるかという共同体により作り上げられていることが示されている。
ところで、作者は実際にNSFの奨励金で南極に行き、その経験を踏まえてこれを書き上げたそうである。火星三部作でも、南極は地球上で一番火星に近い環境であるため訓練地として登場している。作者は火星三部作を執筆中に、南極行きのためのNSFの奨励金に応募したが、当時執筆中の小説の舞台は火星であって南極ではなかったため落選した。火星三部作を書き上げたあと、今度は南極小説を目的に掲げて再び申請し、無事審査に通って南極に赴いたそうだ。そうして書き上げられたのがこの作品である。火星三部作でも彼の風景描写は美しかったが、この作品でも風景の描写はすばらしく美しい。そしてひたすら寒さが厳しく、凄みのある自然の姿が描かれている。
*1:『レッド・マーズ』、『ブルー・マーズ』、『グリーン・マーズ』