『リリエンタールの末裔』

あらすじ

彼は空への憧れを決して忘れなかった――長篇『華竜の宮』の世界の片隅で夢を叶えようとした少年の信念と勇気を描く表題作ほか、人の心の動きを装置で可視化する「マグネフィオ」、海洋無人探査機にまつわる逸話を語る「ナイト・ブルーの記録」、18世紀ロンドンにて航海用時計マリン・クロノメーターの開発に挑むジョン・ハリソンの周囲に起きた不思議を描く書き下ろし中篇「幻のクロノメーター」など、人間と技術の関係を問い直す傑作SF4篇

カバーより

 『魚舟・獣舟』(感想はこちら)、『華竜の宮』(感想はこちら)など素晴らしかった上田早夕里さんの新作短篇集。これまでは鬱屈した主人公が多かったように思うが、本書はわりと爽やかな読後感だ。個人的には「幻のクロノメーター」が好み。

「リリエンタールの末裔」

 飛ぶことに憧れ、夢をかなえた少年の物語。タイトルのリリエンタールとは、1890年代にハンググライダーを試作し、自分で試験飛行に挑んだ実在の人物だ。


 この物語の世界は、『華竜の宮』と同じ世界。大規模海面上昇リ・クリティシャス後の世界だ。魚舟にも見られるように、この世界では人体改造が進んでいる。この物語の主人公チャムも人体改造された種族のようで、背中に鉤腕があり物をつかむことができる。彼らの種族は都市ではさげすまれている。


 飛ぶことを夢見たチャムは海上都市ノトゥン・フルへ行き、差別を跳ね返して、夢を実現するために一歩ずつ歩み始める。夢に向かって真摯に着実に努力しつづける姿に好感が持てる。爽やかで清々しい作品だ。

「マグネフィオ」

 事故により脳に障害を負った二人の男性と、それをサポートする一人の女性の三人の関係を描いた物語。


 主人公の和也は事故に遭い、人の顔を認識できなくなった。同じ事故でもっと重い障害を負った修介は、外部からの呼びかけに何の反応も示さなくなった。けれども修介の妻 菜月は、修介が状況を認識しているものと信じて疑わなかった。修介の心の動きを知るために、脳の活動を測定して視覚化できる装置の開発を菜月は試みる。この装置で視覚化された花のようなグラフに、菜月は〈マグネフィオ〉と名付けた。


 三人の関係がなんとも微妙で悩ましい。事故によってその関係はいっそう悩ましいものになっている。はたしてこの装置を使うことが、彼らの救いになるのかどうか、考えさせられる。

「ナイト・ブルーの記憶」

 亡くなった霧嶋恭吾に代わって、メディカル・プログラマをしていた女性がインタビューに応じて彼のことを語るという、ちょっと構成がややこしい短篇。


 霧嶋恭吾は海洋無人探査機の元オペレータ。彼が活躍したのは、深海の探査が有人探査機から無人探査機へと切り替わる時期だった。有人探査機のベテラン・パイロットだった彼は、無人探査機〈ナイト・ブルー〉の人工知能に、熟練したパイロットの動きを学習させようとしていた。


 こうしたオペレーションを繰り返すうちに、霧嶋は、ナイト・ブルーから触覚のフィードバックを感じるようになってきた。機械を通して触ったものが、なまなましい現実感を持って感じられる。脳が人間の身体という枠組みを超え、機械との間にも共感覚を感じるようになる、そんな新しいタイプの人類のはじまりを描いた物語だ。


 海底で繰り広げられている粘質物の大量発生や地殻内微生物の関係など、ゆくゆくは未来で大規模海面上昇リ・クリティシャスへとつながりそうでもある。『華竜の宮』へとつながる世界観を期待できそうな短篇だった。

「幻のクロノメーター

 航海用時計マリン・クロノメーター作りに生涯を捧げた時計職人ジョン・ハリソンと彼の息子ウィリアム。この家で家政婦をしていたエリーの視点から、彼らのことを独白の形式でつづった物語。1741年生まれの彼女が語るのは、どうやら19世紀のロンドンでの出来事のようだ。この時代背景からどうSFになっていくのかが注目のしどころだ。


 大航海時代のイギリスでは、長い航海でも狂わない精度の高い時計が求められていた。というのも、航海中の経度の割りだしは、天体観測に加えて時計を使うことで、はるかに運用が楽になるからだった。こうした技術的なこともここではわかりやすく説明されていて面白い。


 完璧を求めるハリソンは出来上がったものに満足せず、さらに精密なものにしようと歳月をかけた。一方、息子のウィリアムは父親とは違う考えを持っていた。時計のために父親が買ってきた見たこともない不思議な〈石〉に魅せられたウィリアムは、これを使って独自のクロノメーターの製作に挑戦する。


 親子で繰り広げられるクロノメーターの精度の対決が興味深いし、彼らに援助金を出してくれていた経度評議員会や王室天文官などとの対立のゆくえも興味深く読める。語り部役のエリーも、女性ながら時計作りに興味を持ち、ウィリアムから時計作りについて学んでいた。こうした話も読みごたえがある。また、次第に異なる世界へと世界観が変容していくようすも面白い。エリーの果たす役回りが注目のしどころだ。