『ダールグレン』

 何か異変がおきて経済活動が停止した、どこともわからない街ベローナ。打ち捨てられたこの不思議な街での体験が、主人公キッドの視点で描かれている。


 キッドは自分の名前が思いだせない。記憶はところどころ抜けおち、ベローナに来てからも何日もの記憶が消失している。キッドと呼ばれるようになった彼は、なぜかみなから注目され、話題の中心となった。片側のページは白紙、もう片側は書きこまれているノートを手に入れ、ノートの余白に詩を書きはじめた。どうやら本書は、キッドのこのノートを書き写したもののようだ。


 ベローナに来る前に、キッドは真鍮の刃のついた腕につける〈蘭〉という武器と、プリズム・鏡・レンズのついた真鍮の鎖をてにいれた。何を意味しているのかよくわからないが、何度も言及されて肌身離さず身につけているところをみると、何か重要なことを象徴しているのだろう。


 雲でおおわれたベローナの空は昼夜の区別がつかず、時間感覚が失われている。そんななか、二つめの月や巨大な太陽が突如あらわれたりする。あちこちで火事がおきていて、多くのひとびとは逃げだしたようだ。残ったひとびとはいくつかのコミュニティにわかれて暮らしている。


 キッドのグループは周囲のコミュニティからは恐れられている。たまに〈狩り〉に出かけるからだが、実際にはたいしたことはしていない。気の向いた家を〈ねぐら〉とし、食料は倉庫や店などからもらってくる。たいていはここで寝ているだけだ。そうでない時はドラッグや乱交にふけっている。キッドがつるんでいるレイニャとデニーとの三角関係は複雑で理解しがたい。


 キッドは出会った人びとにふらふらついて行って交流する。分厚いこの作品には、こうした交流の様子がこと細かく書かれている。登場人物の描写もやたらと細かく、通りがかった程度のたいして目立たない人でも、いちいち詳しく記されている。どうやら作者は綿密に設定して書いているようだ。けれども読者にわかりやすく説明しようという配慮はないので、読みすごしてしまう。もしくは読みすごすよう計算して書かれている。あまりに偏執的に細かく書かれているので、独特の奇妙な印象が残る。


 リチャーズ一家の不気味なエピソードなど、興味をひかれるエピソードもいくつかあるのだが、たいていはたいした山場もないままだらだらと続く。キッドが深い交流をもつのはレイニャとデニーくらいだ。ベローナの有名人のジョージ・ハリスンやロジャー・コーキンズなどとは、何度も話題にのぼるわりにはうわさ話に終始していて、実際にはたいして交流していない。分厚いハード・カバー二冊にわたる作品だが、面白いのかどうかよくわからないし、SFと呼ぶにはあまりに説明が不足し過ぎている。


 また、文章の不完全な箇所が多くて読みづらい。そもそも冒頭の文章からしていきなり読点「、」から始まる。後半になると、ますますこれが読みにくくなる。二段組みの文章の合間に四分の三段分を使った脈絡のない他の文章が差し挟まれ、文章が抜け落ちて途中から始まるところもあちこちにある。誰かの解説や校正のようなものもそのまま載せられている。人称もぶれていて、基本的には三人称で書かれながらも、時折一人称の文章が交じっている。


 タイトルの『ダールグレン』の意味も最後までわからなかった。ノートに書かれていた人名リストのひとつということはわかるのだが、何のリストなのかわからないし、どうしてそれがタイトルに選ばれたのかも見当がつかなかった*1


 とりあえず読み終えたが、一度読んだだけでは理解できたとは思えない作品だった。これは途中で投げ出す人も多いだろう。実験的な作品なんだろうけれど、時代が違うからこの実験に意義があったのかどうかよくわからない。もてはやされ過ぎているキッドの状況にも、もしかするとこれはだれかの妄想なのかもしれないと、深読みしたくなる。とはいえ、日本語に訳されて自分で読んでみて確かめられるのは良いことだ。この作品の翻訳は大変だっただろうと思う。

*1:巽氏の解説にネタバレが書かれていて、なるほどと納得したが