『差別と日本人』

内容

  • 第一章 差別は何を生むか
  • 第二章 差別といかに闘うか
  • 第三章 国政と差別
  • 第四章 これからの政治と差別

    カバーより

 差別の問題を語るのは難しい。差別を受ける立場から語るのも、差別をする側の立場から語るのも、全くの部外者の立場から語るのも、どれも難しい。この対談は、受ける立場から語られたもの。生々しい実状が、これらと闘って来た力強さで語られている。私はこういうものはタブーとして秘められているより、きちんと言語化して語られるべきだと思っているので、こうして堂々と対談して出版され、店頭などでも大きく取り上げられていることに意義を感じる。


 この対談を読んであらためて認識したのは、私が生まれ育った地域は、部落解放運動が盛んだったということだ。


 小学校では、被差別部落について学ぶ同和教育が行われていた。この本で紹介されている狭山事件についても、何週間にもわたって討論したり、作文などを書いていたような気がする。また、授業以外にも勉強会が行われていた。当時、勉強会と言うからには算数なんかの勉強をしているのだろうと思っていた私は、こういった勉強会についてどう思うかというアンケートをとられた時に、的外れな感想を書いた覚えがある。思えば、勉強会について説明していた教師も、何を勉強しているかについては相当ぼかしていたようだった。アンケートの少し後になって、この勉強会は部落の出身者が差別について学んでいるのだということを知った。こうした勉強会を通じ、小学校でも中学校でも、部落出身者がカミングアウトするということがよくあった。


 おそらく、他の地域ではこういうことはあまりなかったんだろうと、この対談を読んであらためて思った。なにせ、ここで「ものすごく強烈な部落解放同盟」と紹介されている組織を率いているのが、小学校の同級生のお父さんである。こういう運動が盛んだったのも道理である。それが功を奏したのかどうかはよくわからないが、少なくとも私の知っている範囲では、部落出身ということを理由とした差別やイジメは、学校ではなかったように思う。


 この対談には、関東大震災の時に起きた虐殺事件や、戦争の時の従軍慰安婦の実態なども紹介されている。これらの実態には、あまりの酷さに吐きそうな程だ。こんなにも酷いことを行いながら、差別することでこれらの行動を正当化できるものなのか。自分がこんな目に合ったらと考えると、身の毛がよだつ。


 阪神淡路大震災の時には、被害が深刻だった地域が差別を受けたことの結果としてあったのかもしれないが、少なくとも関東大震災のような蛮行はなかったようだし、お互いに助け合うことができたようだ。我々が、少しは進歩してきているものと思いたい。