『「世間」とは何か』

内容

序章 「世間」とは何か
第1章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
1 歌に詠まれた「世間」
2 仏教は「世間」をどう捉えたか
第二章 隠者兼好の「世間」
1 「顕」と「冥」がつくりなす世の中
2 神判と起請文
3 近代人兼好
第三章 真宗教団における「世間」―親鸞とその弟子達
1 親鸞の「世間」を見る眼
2 初期真宗教団の革新性
第4章 「色」と「金」の世の中 ―西鶴への視座
1 西鶴の時代
2 恋に生きる女達
3 「金」と世の中
4 「色」と「金」で世をみる
5 「艶隠者」西鶴
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか ―明治以降の「世間」と「個人」
1 「社会」の誕生
2 「世間」の内と外 ―藤村の「破戒」
3 「世間」の対象化 ―「猫」と「坊っちゃん
4 「世間」と付き合うということ ―「それから」と「門」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ
1 荷風個人主義
2 光晴の歌った「寂しさ」

カバーより

 社会科学という学問の分野に長年たずさわった著者が、その学問の叙述の形式に馴染めず、それがなぜなのかを考察して書いたのが本書。


 本書の著者は、社会科学の叙述が、自分と社会を切り離して客観的に捉えることができるという了解があって書かれているかのようだが実際にはそうではなく、いっぽうで叙述の中に自己をうまく示せていないものが多いということを、長年気にかけていたようだ。そして、その理由を、西欧の叙述の形式だけは取り入れたものの、日本古来の「世間」という意識でいるからではないかと分析する。


 共通の哲学・神学・価値観を持つ西欧とは異なり、日本にはそういった共通の基盤がない。「社会」という言葉は取り入れたものの、意識の上では日本古来の「世間」として捉えていた。この「世間」という言葉は「社会」と倒置できるものではなく、実態はもっと狭く、自分が関わりを持ったり今後持つであろう関係の世界に過ぎない。そこには何らかの形で自己の評価や感慨が吐露されて来た。だから叙述の中に自己をうまく示すことができないのではないか。そこで、では「世間」とはいったい何かということを、時代を追って文学をひも解きながら、そこに使われている「世」「世の中」「世間」などの言葉の指し示す意味合いについて考察している。


 私自身も、日本人の主体についてここ何年かいろいろと考えて来た。私自身が捉えている主体の持ち方とは、あまりにも異なる捉え方をしている人と関わったのがきっかけだった。いろいろ本を読んだり観察したりして理解できたのは、「私」というものの捉え方が古来の日本と西欧では異なっているらしいということだった。私自身の捉える「私」はおそらく西欧のものに近いのだと思う。日本は西欧型の「私」という概念を取り入れ、西欧の提唱する近代化を目指したものの、古来の日本の「私」という捉え方は未だに根強く残っている。西欧型と古来の日本型の「私」がミックスされた状態で個々の人の中にあり、同じ日本人でも「私」をどう捉えるかは、その比率によってはかなりかけ離れているのではないだろうか。本書には「世間」に相対して「個人」が時代とともにどう捉えられて来たのかも紹介されていて興味深い。


 中でも興味を惹かれたのは、古来「世」と言う場合、人々は死者をその中に含んでいたし、時には動物や非生物などさえ含んでいたという指摘だ。また、そういったものと調和していないものには何らかの問題があると判断され、それがケガレとして捉えられていたという。こうした捉え方は、今でも根強く残っているように思う。


 また、「世間」には差別をする主体としての一面があるという指摘も興味深かった。そして、その内側には差別される側の人々は含まれていないのだという。これなどは「世間」を考える上で重要な指摘だろうと思う。


 人々が、「個人」を貫くうえで「世間」とどう対峙して来たのか、時代とともに追って見れて面白かったのだが、明治以降にどう変化したのかがちょっと捉えがたかった。西欧から「社会」という新しい概念が入って来たことによって、「世間」というものがどう変化したのかなど、もう少し分かりやすければ良かったように思う。また、冒頭で展開されていた作者の分析する「世間」が面白かったので、もっと紙面が割かれていても良かったように思う。