『日本人の〈原罪〉』

目次

  • 第一章 愛するものを「害する」こと ―父神イザナキの罪悪感― 北山修
  • 第二章 『古事記』神話への道案内 橋本雅之
  • 第三章 『古事記』を読み解く ―現代語訳「古事記抄」― 橋本雅之
  • 第四章 対談 今日を生きるための神話論 北山修×橋本雅之

 精神分析家の北山修氏と国文学者の橋本雅之氏という、異色の組み合わせの共著。日本の古典や昔話にいくつかある「見てはいけない」という禁止を破る話を題材に、日本人の罪に対する意識を考察している。


 見てはいけないのに見てしまうという話は、もちろん諸外国にもあるのだが、日本のものには禁止を破ったことに対して罪の意識が無いのが特徴だという。なぜ罪の意識が無いのか。日本人特有の意識の持ち方が、ここに現れているのではないか。一方で日本人にはうつや自殺が他の先進国に比べても多く、急激な幻滅体験を経験すると、消えてしまいたいと考える人も多い。こういう現状を見直すためにも物語に織り込まれている日本人が繰り返しやすい思考システムを見直し、国際化した現代に合った結末に変えるにはどうしたら良いかということが模索されている。


 これが非常に面白かった。例として挙げられているのは『古事記』のイザナキ・イザナミの神話や海幸彦・山幸彦の神話、「鶴の恩返し」など。おおむね男性主人公は無自覚に自分の欲望をぶつけ、女性主人公は自分自身の身を削ってでもそれを叶えようと尽くす。その条件として女性主人公は「けっして見ないでくれ」と懇願するわけだが、男性主人公はそれを守ることができずに破ってしまう。けれども禁を犯したことに対して罪の意識は描かれていない。むしろ女性主人公側の恥の意識がクローズアップされていて、禁止を破った罪が見えにくくなっているという。


 イザナキにいたってはあわてて逃げ帰り、元はと言えば自分の理不尽な要望で自ら異界へ出向いていったにも拘らず、我が身が穢れたと禊をする。罪を水に流すことで無かったことにしようとする。そこには約束を破ったという加害者としての意識はまったく無く、むしろ自分が被害者であるかのように振る舞っている。


 一方で、実は異類であった女性主人公は、見られたことで恥をかかされ、怒ったり、自ら身を引いたりする。急激な幻滅体験の後には、急いで消えてしまうしか方法は残されていない。また、カエルなどが王子に変わってハッピーエンドを迎える外国の物語とは違って、異類との婚姻が成り立たないという点も、日本に特有なのだという。


 ここで取り上げられている男性主人公たちや、日本人が繰り返しているという「心の台本」の要約は以下の通り。

〈私〉には底なしの欲望により、豊かで美しい対象を求め侵入していく性癖があって、〈私〉は同時に対象を傷つけたり破壊していたことを思い知ることになるのだが、特に悲劇的な展開では、これに急激に直面し幻滅することが多い。そこで深まる罪悪感の痛みから、〈私〉は逃走し、やり直しや罪の取り消しをくりかえすことになる。99ページより


 『古事記』の上巻については、先のイザナキ・イザナミの神話や海幸彦・山幸彦の神話を含めてさらにいくつか、解説付きで現代語訳が掲載されている。主体性は無いが母の愛には恵まれ罪とは無縁だったヒーロー大国主の解説など、興味深い指摘はたくさんあったが、中でも次の文章に私が言いたかったことが言い尽くされているので挙げておきたい。このような指摘があるだけでも、個人的には大満足な一冊だった。

しかしこれを、去ってゆく「異類」の視点から見直して批判的にとらえるとどうなるであろうか。死者や八尋わに、さらに鶴の立場に立って考えると、生きているイザナキ、地上の神である山幸彦、人間である鶴女房の夫、これらもじつは「異類」なのである。言い換えるならば、相対的な視点から見た場合、いずれもが「異類」性を持っていると言えるのである。そのような立場に立って考えると、これら古典に描かれた「見るなの禁止」を破ることは、人間側の論理として「異類」性を相手に一方的に押し付け、自らのなかにも存在する「異類」性を否定、ないしは見て見ぬ振りをするための方便として機能していたとみることができよう。そのような視点から、去っていく側の立場に立って別離を考えてみると、それは「異類」性を背負わされて追放されることなのである。P184より