『夢の果て』1〜3

あらすじ

核戦争による放射能汚染のために文明は滅び、生き残った者たちは人が住めない状態となった地上を捨てた。長い年月が流れ、人類は地下都市を建設し文明を復活させていたが、行き過ぎたESP研究所によって、超能力者は混乱させるもの(Perplexer)、略称Pと呼ばれ、恐れられると同時に、秘密裏に捜査・発見・抹殺される運命にあった。そんな社会に生まれた一人の少年を中心に、人間の愚かさと優しさを哀切に謳いあげたSFコミックの傑作

カバーより

 迫害される超能力者、スロウの生涯を描いた物語。作者はPシリーズという未来史を書き続けていて、この『夢の果て』もそのうちのひとつに当たる。このシリーズでは超能力者は“Perplexer(混乱させるものという意味、略してP)”と呼ばれ、普通の人々から恐れられ、迫害されている。


 どうやら過去に大きな大戦があったようだ。地表は放射能で汚染され、住めない。人々は地下に都市を作り、現代とさほど変わらないレベルの暮らしを営んでいる。そんな設定がこのシリーズの世界の背景だ。


 人々の間には、時々“P”が生まれる。大人になってからその能力が現れるものもいる。“P”を見つけたら通報しなければならない。通報された“P”はP病棟に送られ、治療される。“P”は「ほうっておくと人間にない力をつかって犯罪を起こす」と信じられ、学校でもそう教えられている。


 8歳のスロウは母ステラと弟サモスの3人で幸せに暮らしていた。しかしスロウはテレパシー能力のある“P”だった。ステラはスロウの能力に気がつき、悩む。愛する息子を通報しなければならない。しかし治療という名目でP病棟に送られた“P”は、病死と偽られて実際には殺されていた。偶然そのことを知ったステラは、他人に殺されるよりは自分で、と無理心中を図る。また、サモスが後ろ指をさされないようにするため、催眠術で偽りの名前を覚えさせ、置き去りにした。しかしスロウは死なず、生き残ってしまった。こうして彼の苦難の人生が始まった。


 この世界では、普通の人々が“P”を恐れる理由は希薄だ。教え込まれた固定観念に従い、盲目的に怖いと信じている。“P”への差別は、異質なものに対する恐怖と無理解から起こっているように思える。“P”が良いにせよ悪いにせよ関係なく、ただ“P”は怖いという固定観念が働いている。その差別意識はまるでナチスによるユダヤ人弾圧や中世の魔女狩りのように思える。


 “P”は“P”であるということにより、絶えず生き方の選択を迫られる。それに対して普通の人々は見たくないものに蓋をして、手を汚さずに楽な生き方をしているように見える。もし身近な人間に“P”が現れると、そこで初めて戸惑い、途方にくれる。しかしこの作品では、見たくないものに蓋をする生き方も決して無傷でいられるわけではなく、愛するものを失ったり、思い出さえも持っていられなかったりする。


 この迫害は普通の人たちによる差別意識のために起こっているのは確かなのだが、しかし実際には普通の人たちはあまりに自分の意思を持っていないため、迫害を企てる側にすら回れていない。本来なら迫害は、マジョリティ対マイノリティで成り立つものだと思うのだが、この話ではマイノリティ対マイノリティという構造になっている。私としてはこの構造に納得がいかないのだが、作者はよほど、マイノリティがどう生きていくべきかということを描きたかったのだろう。


 ここには二つの生き方が提示されている。マイノリティとして生まれついた自分の不幸を不幸とみなして他人を愛することなく一人で生きる生き方か、自分自身はぼろぼろに傷つきながらも他人を護り愛する生き方か。もちろん愛する生き方が良いに決まっていると言うのは簡単なことだ。しかしぼろぼろに傷つきながらそれを実行するのは、いかに大変なことか。


 その他にも各エピソードで、“P”と普通の人間や、“P”同士の関係が、友情、恋愛、兄弟愛、信頼、裏切り、葛藤、嫉妬など、さまざまな角度からシミュレートされ、描かれている。“P”達があまりに痛々しく、読んでいてつらい。