『しあわせの理由』

あらすじ

12歳の誕生日を過ぎてまもなく、ぼくはいつもしあわせな気分でいるようになった……脳内の化学物質によって感情を左右されてしまうことの意味を探る表題作をはじめ、仮想ボールを使って量子サッカーに興じる人々と未来社会を描く、ローカス賞受賞作「ボーダー・ガード」、事故に遭遇して脳だけが助かった夫を復活させようと妻が必死で努力する「適切な愛」など、本邦初訳三篇を含む九編を収録する日本版オリジナル短篇集

カバーより

 グレッグ・イーガンは、ハードSF作家という印象が強い。しかしこの短編集に収録されている作品は、がちがちの科学的な説明は主題ではなく、どちらかというと心情とか人間とは何かといった哲学的なことがテーマとなっていて、日常からそれほどかけ離れていないので読みやすいと思う。


 だが、何がどうなったということがあまり明確に書かれているわけではないので、ちょっと読んだだけでは意味がよくわからない。例えば冒頭の作品の「適切な愛」だが、結末で主人公の女性は夫に今までと同じような感情が抱けないと悩んでるというか悟っちゃうのだが、何をどう悩んでいるかということが具体的には書かれていない。私の解釈では、夫を自分の子供のように愛してしまっている身体と、そうではないと分かっている理性のはざまで揺れ動いているように思えるのだが、どうだろうか。


 彼の作品は、個人個人の人生観によって捕らえ方が異なってくるのだろう。構成する要素はハードSFであるが、人間とは何か、死とは何か、魂とは何かということが描かれていて、考えさせられる。短編集としての作品の選び方も、なかなか粒が揃っていて良いと思う。

「適切な愛」

カーラの夫クリスは事故に合い、脳をクローンの身体に移植することになる。新しい身体が生育するための2年間、カーラは生物学的生命維持と呼ばれる開発されたばかりの方法で、クリスの脳を保存することになる。献身的な犠牲を払ったカーラの愛と心情を描いた物語。この生命維持方法は倫理的に問題があり、かなりグロテスクに思える。

「闇の中へ」

原因不明なまま地上に突如出現するワームホール。それは10年に渡って、自然災害のようにいきなり現れてはその途中にあるものを飲み込み、大勢の人の命を奪っていた。いつ消滅するかわからないワームホールに進入して内部に閉じ込められた人を救うランナーの、救助活動を描く。18分ごとに増す死の確率を計算しながら、時間と戦い一人でも多くの人を救おうとするジョンの活躍が描かれている。

「愛撫」

頭は人間の女性、身体は豹のキメラが、犯罪現場から発見された。発見した警察官のダンは捜査を進め、見つかったキメラがクノップフの描いた名作『愛撫』の絵画にそっくりなことに気づく。美の一瞬の実現を追い求め、芸術を現実世界で実在させることに執着する芸術家と、それに翻弄される警官の物語。(クノップフの解説と『愛撫』はこちら

「道徳的ウィルス学者」

同性愛者を憎むショウクロスが神の名の元に作り上げた、生物学的時限爆弾となるウィルスの話。同性愛者や不倫した人にのみ害を及ぼすメカニズムをもったウィルスとは。

「移相夢」

意識をロボットにコピーし、不死となる。その意識をデータとして移動させる時、移相夢と呼ばれる夢を見るという。移相夢と現実の境界の危うい物語。

チェルノブイリの聖母」

紛失したイコンを探すよう大富豪マシーニから依頼された探偵。このイコンには特別の価値があり、マシーニはじめ、これを捜し求め殺人をも行う人達がいた。捜索方法などがなかなか近未来的で面白い。

「ボーダー・ガード」

量子サッカーの選手ジャミル。敵方のチームの女性、マルジットは、7594歳だった。精神と肉体を切り離すことが可能となり、死を知らない<新世界>に生きる人々と、死の存在した過去を経験した人物の物語。死生観が仏教の色濃い日本人の目で見ると、ここで描かれている死に対する感覚はキリスト教的すぎて違和感がある。

「血をわけた姉妹」

ウィルスに侵された一卵生双生児、ポーラとカレンの物語。遺伝子的に同じで同じ処方箋の治療を受けたにもかかわらず、二人の運命は異なる結果となってしまう。それぞれが歩む人生は、遺伝子が同じだとしても別々の人生である。

「しあわせの理由」

幸せを感じさせる脳内分泌物、ロイエンケファリン。病気とその治療のため、脳内のこの物質の分泌に異常が起きた青年の物語。ダニエル・キース作の名作『アルジャーノンに花束を』に少し印象が似ている。『アルジャーノン〜』は知性に焦点が当てられていたが、こちらは感情に焦点が当てられている。これもなかなかの名作だと思う。好き、嫌いという感情が自然に発生して感じられるのでなく、自分で操作してコントロールしなければならなくなったとき、それは感情と言えるのだろうか。