『ディアスポラ』

あらすじ

30世紀、人類のほとんどは肉体を捨て、人格や記憶をソフトウェア化して、ポリスと呼ばれるコンピュータ内の仮想現実都市で暮らしていた。ごく少数の人間だけが、ソフトウェア化を拒み、肉体人として地球上で暮らしている。《コニシ》ポリスでソフトウェアから生まれた孤児ヤチマの驚くべき冒険譚をはじめ、人類を襲う未曾有の危機や、人類がくわだてる壮大な宇宙進出計画《ディアスポラ》などを描いた、究極のハードSF

カバーより

 惑星の大気を中性子レベルで変換した謎の知的生命体トランスミューターを追いかけて、次元を超えて壮大な旅を繰り広げるハードSF。登場人物達の多くは、すでに肉体を持たない疑似人格。彼らは仮想現実都市ポリスの上で生きている。ポリスもいくつか種類があり、各OSによって少しずつ特色が違っていて面白い。


 主人公ヤチマは《コニシ》ポリスで生み出された孤児。冒頭で生まれ立てのヤチマが自我に目覚める場面は感動的だ。最初は単なる入出力に過ぎないものが、次第にフィードバックするループを繰り返して、自分自身が考えていることに気付く。現実世界でも脳の入出力はこのような繰り返しを経て自我に目覚めるのかもしれない。


 ヤチマは親友のイノシロウに連れられて、肉体人達に会うために現実世界へも訪れる。この時代生身の人間達はDNAレベルでの肉体改変を繰り返したあげく、理想や主義によって異なるいくつものグループに拡散してしまい、改変が極端なグループ同士では意思の疎通すら不可能になってしまっていた。その差違は言葉の違いというレベルをはるかに超え、人間という共通性さえ通用しない。さらにそこにトカゲ座の中性子星によるガンマ線バーストが追い討ちをかける。


 《C-Z》ポリスでは《ディアスポラ》計画が立てられた。宇宙のことはまだまだ知られていない。《C-Z》ポリスを住民まるごと複製して千のクローンを作り、それを千の目的地へと送りだすことで宇宙に関する知識が得られ、ひいてはトカゲ座のガンマ線バーストのような事態が再び起きてもそれに対処できるのではないかというのが、この計画の目的だった。ヤチマもこれに参加するために移住する。元は同じ人格だった千のクローン達は、次第に異なる人格へと変化していく。偶然性と立場の違いにより、どうしても異なってくる。なまじ元が同じだけに差違もクローズアップされる。クローンされたものどうしの間にも葛藤があって面白い。


 《ディアスポラ》計画はさらに、異なる次元のマクロ球の中へとクローンを送り込む壮大な旅へと引き継がれる。架橋者オーランドが捨て身で架橋した、五次元観境で生息する知的生命体とのコミュニケーションは読みごたえがある。クローンにより自分自身を少しずつ相手の環境に合わせて変化させ、相手とのコミュニケーションを成立させる。元は肉体人の間で異なるグループのコミュニケーションを取り持って来た架橋者ならではの活躍だ。こうして明らかになったマクロ球の中へ、ヤチマとパオロは謎の知的生命体トランスミューターを追いかけて、クローンしながら旅を続ける。このあたりになると5+1次元のマクロ球だとかコズチ理論が云々とか、異なる次元の世界の描写が複雑で難しい。


 ハードSFとしてもじゅうぶん読みごたえがあるが、アイデンティティをテーマにいくつか作品を書いて来たイーガンだけに、そちらの面でもじゅうぶん面白い。ここでは登場人物達は自分自身のクローンを大量に複製する。何百兆という膨大な数のクローンを作り出すことで、イーガンはアイデンティティについて思考実験しているように思える。そこでは容赦のない偶然性がアイデンティティの成り立ちに大きく影響を与えている。コズチ理論を進展させたブランカのエピソードなど、まさに偶然性が大きく関わるエピソードだ。膨大な量のシミュレーションを重ねることでアイデンティティは、偶然性による差違で変化しうる部分は淘汰され、そうでない部分は精錬されていく。こうして残った核の部分。これが真のアイデンティティとしてクローズアップされている。ラストシーンは静謐として美しい。