『宇宙消失』

あらすじ

2034年、地球の夜空から星々が消えた。正体不明の暗黒の球体が太陽系を包みこんだのだ。世界を恐慌が襲った。この球体について様々な仮説が乱れ飛ぶが、決着のつかないまま、33年が過ぎた……。ある日、元警官ニックは、病院から消えた若い女性の捜索依頼を受ける。だがそれが、人類を震撼させる量子論的真実につながろうとは! ナノテクと量子論が織りなす、戦慄のハードSF。

カバーより

 ハードボイルドタッチの、「シュレディンガーの猫」人間バージョン。大風呂敷の広げ方がすばらしい。でも量子論がからんでいて難しかった。


 太陽を中心に、半径が冥王星軌道の約2倍の球形の謎の物質で太陽系が包まれてしまった〈バブル・デイ〉から早33年。太陽系外の星は見ることが出来なくなってしまい、閉息感が漂っている。カルト教団〈奈落の子ら〉の活動も騒々しい。私立探偵のニックは、ローラという女性の捜索を依頼された。ローラは先天的に重度の脳損傷のある女性で、外から鍵のかけられた警護の厳しい病室にいた。しかしある日こつ然と消えてしまったという。彼女は誰に何のため連れ去られたのか。そして今はどこにいるのか。


 近未来的なツールを駆使して、ニックは捜索を始める。この時代、脳の神経を再結線するさまざまなモッドがインストールされている。元警官だったニックには、警官用の強化モッドを始め、さまざまなモッドがインストールされている。能力を増強するものや、不適切な思考を遮断するもの、データベースや通信用のものなど、用途は様々だ。モッド以外にも、ローラを探し出すための捜査手段などが詳細に描かれている。近未来的なガジェットをイーガンほど具体的かつ詳細に書ける人は、なかなかいないんじゃないだろうか。


 近未来型ハードボイルドとして始まった物語は、途中で一変する。一匹狼だったニックが、ある組織に忠誠を誓ってしまうのだ。それも見せ掛けではなく本心から。これはハードボイルドの約束事から考えるとあり得ない。ハードボイルドだったら、自分以外の誰かに忠誠を誓ってはいけない。しかし、そこはイーガン、組織に忠誠を誓いながらも、そもそも忠誠って何か、自分が忠誠を誓っているのは何に対してかというところからとことん理詰めで積み上げていき、本末転倒のような結論を見つけ出してしまうのだ。


 量子論的なSFネタもさることながら、それにも増して、アイデンティティに関する問題提起が面白い。例えば、脳を人工的に再結線して変化させる場合、それも自分自身だと言えるのか。雑念をフィルターにかけて集中力を増したとき、振り払われた雑念の部分に自分自身はいないのか。何を基準に雑念であると決めるのか。また、量子論のネタにより、さらにアイデンティティの問題はクローズアップされる。

人生は、ほかのバージョンの自分自身を絶え間なく虐殺することで成り立っている。P277より

こうなると、果たしてどこまでが自分自身なのか。瞬間瞬間、生み出されては消えていく自分。物語は、時には消えていく側の自分をも描きながら、進行していく。アイデンティティの問題は奥が深い。


 こうしていろいろ考えていると、『希望のしくみ』を読んだあとでは、イーガンの問題提起していることや考え方は、仏教に近いように思えてくる。しかし『万物理論』とくらべると、こちらより『万物理論』の方が切れ味が鋭く、より考えさせられるネタが満載だったと思う。やはり書かれた順番どおり、こちらをまず読んで『万物理論』を読んだ方が良かったと感じた。