〈京極堂〉シリーズ

 裏家業で陰陽師をしている古本屋「京極堂」の店主 中禅寺秋彦が、難事件を解決して憑き物落としをするシリーズ。時代は昭和27、8年。一応は推理小説のような体裁をとっているが、実際には妖怪小説でも呼ぶ方が近いのかもしれない。もっとも妖怪が実際に登場するわけではなく、状況や感情を妖怪に例えることによって名を与え、それを憑き物として落とすのだ。事件は猟奇的なものが多く、古い宗教や地域の因習などが大きく関わっている。


 推理小説と呼びがたいのは、ストーリーの中に事件を解決できるだけのヒントが含まれておらず、京極堂こと中禅寺秋彦の一方的な知識の披露によって事件が解決されてしまうからである。また、推理自体も大して難しいものではなく、途中で分かってしまうようなものもある。推理よりむしろ憑き物落としの過程で披露される民俗学的な解説や妖怪の歴史などの方が面白い。しかし、それならば参考文献を直接読んだ方が面白いような気もする。


 また、京極堂を取り巻く脇役達が個性派ぞろいで大勢いるのだが、彼らの役割も伝統的な推理小説の役割と微妙にはずれていて違和感がある。


 例えば、最初の作品『姑護鳥うぶめの夏』では、京極堂の友人の小説家 関口巽の一人称で展開する。最初は彼が主人公かと思っていたが、関口の報告を聞いて実際に推理するのは京極堂の方だったので、シャーロック・ホームズのシリーズにおけるワトソンのような、事件を凡人の立場から観察し読者に伝える役回りかと思っていた。ところが、この小説家は出来事を正確に観察できない上に、事件に大きく関わりすぎ冷静でなくなってしまうのである。推理小説としては「それはないでしょう」という結末だった。しかもこれ以降の作品では彼は語り部役からもはずされていて、大きく活躍することもない。このあたりも中途半端なのだ。何よりこの小説家は鬱ぎみで、その心理描写が延々と続くのには閉口した。


 他にも京極堂の友人に道楽で探偵事務所を開いている榎木津礼次郎がいる。彼は他人の記憶を目で見れる特殊体質という設定となっている。本来謎解きを楽しむ推理小説であるならば、超能力の類いを出してはいけないはずである。この能力に対する解説はそれなりにこじつけてあるが、厳しいものがある。もっともこの探偵は事件を解決する役回りではないのでこれでいいのかもしれないが。薔薇十字探偵社というふざけた社名といい、探偵事務所の机の上「探偵」と書かれた名札といい、破天荒でいい味を出しているキャラではある。


 その他のレギュラー登場人物には、実直で熱血な刑事 木場、カストリ雑誌の記者 鳥口、京極堂の妹 敦子などがいる。また一度登場したら次回からまた登場して来る人物も数多く、次第に増えていって収集つかなくなっている感があった。ストーリーも巻を重ねるごとにどんどん長くなり、まとめ切れずに行き詰まったようだった。面白くて必要ならばいくら長くてもかまわないのだが、冗長なだけになりつつあった。


 結論として、推理小説と思って読まなければ、昭和初期の魑魅魍魎が跋扈する怪しげな世界観をそれなりに楽しめる。難事件の背景には民俗学的な動機が隠されていて、それを黒装束の陰陽師 京極堂が芝居がかった態度で種明かしし、憑き物を落としていく。確かにそれなりにブームになったのもわかる気はする。


 しかし推理小説として見れば、あちこちでタブーを侵していて納得が行かない。作者がとても器用で、色々な文献を小手先でうまくまとめて推理小説風な味付けをしたという印象が拭えない。作風やタイトルの付け方などは好きなのだが、雰囲気に流され自己陶酔したような描写の仕方も場合によっては鼻につきかねなく、際どいところである。