『アルジャーノンに花束を』

 この作品は某歌手が紹介したことからSFを読まない人達の間でも有名になり、けっこう読まれているようだ。昔は立派にSFだったのに、最近はあまりSFだと冠されていない。SFとうたってしまうと売れあしが鈍るのだろうか。しかし名作SFとして名高い作品である。


 アルジャーノンは知能を高める新薬の実検に使われたねずみの名前である。知的障害者のチャーリーは、このねずみに与えられたのと同じ新薬を人体実験として投与され、知能がめざましく高まっていく。作品は全編彼の日記形式で綴られている。最初は彼の文章は読点も句読点もなくひらがなばかりのたどたどしい文章である。しかし知能の高まりと共に次第に難しい文章に変わり、内容も高度になっていく。


 知能が高まると共に、チャーリーは次第に自分をとりまく状況が理解できるようになってくる。彼はそれまで、自分の周りの人は皆、自分に親切で賢く素晴らしい人々だと純粋に信じていた。ところが知能が高くなるに連れ、実はそうではなかったのだということに気がつき始める。親切の裏に隠されていた優越感や、利用されていたという事実に気がつき、また自分が思っていたほど賢い人々ではなかったことを知る。しかも、今まで対等な人付き合いというものを経験したことがない彼は、周りの人々に対してどうふるまっていいかがわからない。あからさまに自分の失望を伝え、馬鹿にしてしまう。また慣れない恋愛感情も持ち、それをどう扱って良いかわからず、戸惑い、悩み、傷付く。周囲の人間もチャーリーの急激な変化に対応しきれず、態度が硬化していく。


 結局チャーリーは、知能が低かった時も孤独だったけれど知能が高すぎてもやっぱり孤独なのである。唯一の友達はねずみのアルジャーノンだけだった。チャーリーと同じように高い知能レベルを示していたアルジャーノンだが、次第に元のレベルに戻っていくのが確認され、やがて死んでしまう。チャーリーの日記の文章もその頃から徐々に元のたどたどしいものへと変化していくのである。


 知能が高くても低くてもそのこと自体はあまり問題ではないのかもしれない。人間性でいうと、知能が低い時の方がチャーリーは純粋で、人々を尊敬をもって見ることができていた。周りの人々からも愛されていると信じていて幸せだった。社交性というものは知性だけで身につくものではないのだ。チャーリーの救いのない未来が垣間見えて哀れだ。でもあまりにもお涙ちょうだい的な感じが鼻につくかもしれない。